昭和35年? JASRAC No.067-7209-9
ハバロフスク小唄
作詞:鈴木克東
作曲:島田逸平
 歌唱:林伊佐緒
 MIDI制作:滝野細道

(一)
ハバロフスク ラララ ハバロフスク
ラララ ハバロフスク
故郷(くに)は遥かな 雲の陰
いつの日に妻や子と 逢えるやら
男泣きする 夢ばかり

 (三)
 風が吹く ラララ 風が吹く
 ラララ 風が吹く
 何処へ行くやら 渡り鳥
 丘越えて飛んでゆく 影見れば
 俺もなりたや あの鳥に

(二)
抱いている ラララ 抱いている
ラララ 抱いている
可愛い坊やの この写真
朝も夜も幾度か 眺めては
つらいノルマも 笑い顔

 (四)
 待っててね ラララ 待っててね
 ラララ 待っててね
 やがて帰れる その日まで
 あの山をこの川を 後にして
 早く行きたい 故郷(くに)の空
童謡・唱歌 懐メロ 八洲秀章&抒情歌  *10/JAN/18 「細道のMIDI倶楽部」TOPへ

「ハバロフスク小唄」:終戦直前にソ連が日ソ平和条約を一方的に解消し、満州に侵攻してきて、終戦時多数の日本兵を捕虜としてシベリアに連行しました。これが<シベリア抑留>と呼ばれ、強制労働に就かされました。この歌の二番にある<ノルマ>が課せられ過酷な労働となりました。極東シベリアのハバロフスクにも沢山の兵が抑留されましたが、その間、捕虜たちの間で誰からとも無く歌われだしたのが、「異国の丘」や「ハバロフスク小唄」などの望郷の歌でした。現地で多くの人が亡くなりましたが、生きながらえた人々が復員してきて、その人たちと共に、望郷の歌も帰還してきました。「異国の丘」も最初は誰が作ったものか分かりませんでしたが、後にシベリアから復員してきた吉田正のものとわかり、レコード化されました。この「ハバロフスク小唄」の場合も作詞作曲とも分かりませんでしたが、シベリアに抑留されていた米山正夫が採譜していました。米山正夫は帰還直後の昭和22年に「山小舎の灯」を近江俊郎に提供しており、コロムビアレコードも「ハバロフスク小唄」の作者が特定できなかったので、野村俊夫に作詞を依頼し、野村俊夫作詞、米山正夫採譜、近江俊郎唄、でレコードリリースしてしまいました。しかし販売開始していくらもしないうちに、この歌の原曲がキングレコードの島田逸平作曲、林伊佐緒唄の「東京パレード」の替え歌であることが判明し、コロムビアは慌てて回収したのですが、すでにヒットしてしまっていました。そこで改めてこのような形になりましたが、その後元歌の関係者であった林伊佐緒により、キングレコードから発売されたのが、この「ハバロフスク小唄」です。メロディーは原曲と全く同じですが、歌詞/編曲は全く違うものです。
鈴木克東については検索してもあまり出てきません。藤田まことや楠木トシエが歌った「スチョチョン節」「女心はこんなもの」などがあるようです。