清水かつらと内なる叫び

清水かつらと童謡「あした」、「叱られて」
               BGMあした」  PAGE叱られて
清水かつらの背景

 清水かつらには、「靴がなる」(大正8年)、「緑のそよ風」(昭和21年)、「雀の学校」(大正10年)と、とびきり明るい詞のものがある一方で、「叱られて」(大正9年)や、「あした」(大正9年)のように、何とも判断しようもない暗い歌があります。古い童謡には残酷で不可解なものが沢山あります。特に戦前は、差別を差別とは思わなかったり、残酷の概念も違っていましたので、<お母さんが帰って来ないので金魚を一匹突き殺す>などといったものすらあります。今の考え方を以ってそれらを責めるわけにもいきません。清水かつらの歌は、それらとは、ちょっとちがうようです。野口雨情のように、自身の生活、経験を童謡に反映させている作家は多いですが、それがそのまま童謡に対する子供の想念を左右するものではありません。例えば童謡「しゃぼん玉」の背景には、雨情の生まれてすぐに亡くなった娘の悲しい経験があり、それは二番の<しゃぼん玉消えた 飛ばずに消えた 生まれてすぐに 壊れて消えた 風かぜ吹くな・・・>に反映しているといわれていますが、中山晋平の曲はあくまで明るく、歌っている子供には何の関係もありません。子供が歌から受ける夢でいいわけです。

「あした」 作詞:清水かつら 作曲:弘田龍太郎

  
(一)
  お母さま
  泣かずに ねんねいたしましょ
  赤いお船で 父さまの
  帰るあしたを たのしみに
  (二)
  お母さま
  泣かずに ねんねいたしましょ
  あしたの朝は 浜に出て
  帰るお船を 待ちましょう

  (三)
  お母さま
  泣かずに ねんねいたしましょ
  赤いお船の おみやげは
  あの父さまの 笑い顔

 これはどうも、4歳の時に母と別れた清水かつらの生い立ちと深い関係があるようです。清水かつらが2歳の時、かつらの弟を亡くした母は精神に変調をきたし、一家を去らなければならなくなりました。その後新しい母が来て、継母との確執の中で、「叱られて」に繋がって行きますが、この「あした」は実の母が家を去らなければならなくなって絶望的な状態にあった時期の、幼児<清水桂>の記憶の中にあったものとおもわれます。
 「あした」は一般に<赤い船に乗って帰ってくる父を楽しみにして待つ母子の会話>ということになっているようですが、そう単純なものとは思われません。状況は「里の秋」と同じようですが、「里の秋」の母子が父の復員を確信し、落ち着いた希望に満ちた雰囲気であるのに対し、この「あした」はとても不安定な状況です。なぜ母はずっと泣いているのか?なぜ幼児が母を諭さなければいけないのか?朝、浜に出れば赤い船が本当に見える可能性があるのか?物でなく笑顔がなぜ一番のお土産なのか?普通はあり得ない<赤い船>の象徴するものは何か?・・・謎だらけです。こうした状況から、この歌はシベリアに抑留された”父さま”を待ちわびる歌だ、という人もいますが、いかんせん、書かれた年代が違います。大正9年という年は、鈴木三重吉の<赤い鳥運動>の始まった翌年です。母が精神の変調をきたし、頼るものは父親しかなくなった幼児の心の変遷の日々が見えるようです。
 この歌の題の「あした」とは、望んでも果たされるはずもない願いを、現実で駄目と決め付けないで、<あしたに希望を繋ぐ>の「あした」なのです。問題先送りの「あした」ではなく、絶望的な状況から心を救おうとうとする「あした」なのでしょう。その辺のところを聞いて理解していた弘田龍太郎によって、このようなメロディーが付されたのでしょう

「叱られて」 作詞:清水かつら 作曲:弘田龍太郎

(一)              (二)
 叱られて 叱られて        叱られて 叱られて
 あの子は町まで お使いに     口にはださねど 目に涙
 この子は坊やを 寝んねしな    二人のお里は あの山を
 夕べさみしい 村はずれ      超えて彼方の 花の村
 コンと狐が 鳴きゃあせぬか    ほんに花見は 何時のこと


 それにしてもこの「叱られて」も聞けば聞くほど分からないところばかりです。先ず、<叱った>人ですが、これが判然としません。これがはっきりすることは、歌にも大きな影響がありますので、詩人としては、わざと曖昧にしたとしか思われません。あるいは当時の人なら一目瞭然なことかもしれませんが。どうも、両親ではないように思われます。両親だったら普通は日が暮れたら<帰っておいで>でしょう。それを暗い、キツネがコンと鳴くような夜道を、街までお使いに行かせる(親もいるでしょうが一般概念として行かせる)でしょうか?また、子守りする<坊や>が実弟とも思われません。それに<あの子>と<この子>は兄弟姉妹のように思われますが、本当にそうなのでしょうか。
 二番はもっと不可解です。<口にはださねど目に涙>とは、口惜しい怒りの涙か、悲しい絶望的な涙か、お互いを思いやる哀れみの涙か、不甲斐ない自分への涙か、<叱った人>が誰かで全く違ってきます。<二人のお里はあの山を越えて彼方の花の村>、二人には里があって、彼方の花の山里から山を越えて町まで出て来ているのですから、ここに至って<叱った人>が実の両親でないことははっきりしましたが、他は曖昧模糊としています。<ほんに花見は何時のこと>に至っては、過去のことなのか、これからのことなのか、お手上げです。そこで以下は私の解釈となります。
 江戸時代から見習い奉公というのがありました。5〜6歳の頃から、食事とスズメの涙ほどの僅かな給金のみでお店奉公に上がり、一心に働いて、その中で行儀・世渡り・世間常識を獲得して、一人前となって世間に通用するようにする、という制度です。それが職人の徒弟制度のように、戦前の社会には残っていました。貧困な家から口減らしのために裕福な家に奉公に上がるのです。<食べられればよい>身分制度から貧富の差が拡大した時代でした。そのため、戦前の作品には、じいや・ばあや・にいや・ねえや・下男・下女・女中・書生・作男・作女・婢など、いまでは差別用語とされている言葉がポンポン出てきます。この「叱られて」はそうした、<山を越えた彼方の花の村>の貧しい家から町の裕福な家に子守り・使い走りとして奉公に来ている、10歳前後の少年少女のことを歌った歌と思われます。<叱った人>はその家の主人ではなく、執事だとか女中頭などお家大事一筋な人たちを思わせ、きついこともいうので、それが<口にはださねど目に涙>に繋がるのです。最後の<ほんに花見は何時のこと>は、「こんな遠くに来て長い間帰っていないが、前に桜を見たのは何時のことだったろう」とも「何時になったら里へ帰って桜がみられるのだろうか」、といずれにも解釈できます。
 
 「あした」も「叱られて」も、清水かつらが4歳の時に実母と悲しい別れをし、継母の里に引き取られて(現在の和光市)経験した、実体験に基づく暗い時代のもののようです。両曲とも弘田龍太郎の作曲ですが、弘田龍太郎はこういう曲を作らせたら天下一品です。


     
  

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