白糸の滝殺人事件3              3 4 5 6 

[展開]

                 

 その日は倉田涼子にとって、あるオリンピック水泳選手の言葉を借りれば、<今まで生きて来たうちで最悪の日>だった。受験や就職の失敗、失恋にも何度か打ちのめされ、人生の挫折はそれなりに味わったけれど、今度のようなことは初めてだった。
 涼子はここ一週間ほど、正体の見えない影に怯えていた。姿を現すストーカーも怖いけれど、気配は感じるのに実体が分からないのも、不安を掻きたて、神経を逆撫でる。そんな中で、出勤しようとしていた時、その電話は掛ってきた。一瞬、取ろうか無視しようかと迷ったが、心が決断しないうちにOLの性だろうか、咄嗟に耳に当ててしまった。
「もしもし、鈴木さんですか?」
「・・・・・」
 あら、間違いなんだ、切っちゃおう、と思ったが、もしかして影が正体を現したのかも知れない。思い直し、息を詰めて聞き入った。
「もしもし、もしもし、鈴木さんですか?」
「・・・いえ・・・違いますけど・・」
「おかしいナー、そちらは3994の3957番ではありませんか?」
「ええ、番号は合ってますけど」
「そうですか、では失礼ですが、貴女は何と仰るんですか?」
 丁寧な口調だが、有無を言わさぬ強いものを含んでいる。
「・・・・・」
「もしもし、もしもし」
「・・・・・」
 間違い電話の癖に何を言ってるのよ、こっちの名前を聞いてくるなんて! こっちの名前? なんで私の名前なんか聞いてくるの? 何で?
 電話口では、もしもし、もしもし、がしつこく続いていたが、涼子はカチャリと受話器を置いてしまった。「もしもし、も」と電話はそれきり沈黙した。
 倉田涼子は、会津盆地の北方に位置する喜多方から、17歳のときにA学園大学に入学するため、上京して来た。<きたかた>とパソコンに入力して変換すると、先ず<北方>と変換されて出て来るところからすると、もともと会津公方といわれた上杉百二十万石会津若松の北方にあったから、そう命名されたと思わせるが、漆器、清酒といった在来工業が中心の、保守的な土地柄であった。今でこそ喜多方ラーメンなどと言って、車で走れば五分ほどで通り抜けてしまうような人口四万足らずのところに、四十軒余りのラーメン店が店を開いている街となっているが、その保守的風土は変わらない。特に、涼子の両親は、篤農家であった先祖代々の家と土地を守ることが人生の全て、といった、風土に輪を掛けたような保守的な人達で、「女の幸せは、操を守り、良い夫を見付けて傅(かしず)くのが一番」と公言して憚らず、涼子もそのように育てられてきた。
 東京の大学に入学するについては、もちろん、両親の猛反対にあった。両親は、地元会津若松の女子短大でも出て、しかるべき家に嫁いで、平凡で幸せな家庭を築いてくれるのを願っていたのだ。そんなこともあって、涼子の失恋はほとんど涼子のせいで、夢は涙とともに消えた。ある一線に至ると、どうしてもそれ以上踏み込めない。心の壁がたちはだかるのだった。したがて、涼子は、26歳になる今日まで、身も心もという恋愛経験はなかった。こんな事は絶対、絶対に他人に知られたくない。
 思いを振り切るように玄関まで出た時、また電話が鳴った。
 電話は情容赦なしに人を呼びつけるように、鳴り止まない。普通、電話を掛けたとき、呼び出し音が五回以上になると、留守かな?と思いだし、八回を超えるようになると、イライラして我慢できなくなってくる。十回以上待てる人は、よほどどうしても話さなくてはならぬ緊急の用事があるか、相手の事情を斟酌しない無神経であるか、のどちらかである。最近の家庭電話は、だから、大体八回位呼び出して応答しなければ、留守番電話に切り替わるようになっている。
 涼子の電話は留守番変換されるようになっていなかったので、玄関に立ち尽くす涼子を尻目に、いつまでも鳴り続けた。永遠とも思われる時間が経ったころ――本当は2,30秒だったのだろうが――さしものしつこい電話も鳴り止んだ。普通の用件の電話とは到底思えない。それに最前の変な間違い電話。涼子の不安は、それこそ黒雲のように、胸一杯に湧き上がってきた。こんなことしてたら会社に遅刻しちゃうけど・・・
 電話のところに戻って、どうしよう、どうしよう、と暫く迷ったけれど、確かめたいという気持の方が勝って、震える指でリダイアルボタンを押した。
「はい。日光署です」
 男の声が応答した。
「・・・ニッコウ・・・ショ?・・」
「日光警察署です。どうかしましたか?」
 日光署!なんで日光署なの!なんで警察なんかが私に?
「もしもし、もしもし、警察に何のご用ですか。いいですか?落ち着いて。何でも話してください。そちらは―――」
 ガチャン!涼子は通話の糸を断ち切るように、両手で受話器を押し付けた。心臓はドキドキとして、動悸が止まらない。最近の見えない影と警察、一体、何なのかしら?何か関係があるのかしら?
 いろいろ考えているうち、これから自分がどう行動したらよいか分からなくなってきた。会社に行くのを止めて、フトンを被っていても、また電話がきたりストーカーが現実の姿を現したら怖い。会社に行くにしても、途中が怖い。それに、会社が終わったらまた帰ってこなくちゃならないし、夜は一人ボッチだ。今更ながら、相談する相手がいないのが身に染みる。もう、ホントに田舎に帰っちゃおうかしら。
 何のかんの言っても、自分には悪いことをした心当たりなど全くない。どんな話かは分からないけれど、ここは警察と話をするのが一番いいかも知れない。
 あれこれ考えているうちに、決断を促すように、電話が鳴り始めた。
「やだ、もう、会社に遅れちゃう」
 いつも会社に間に合うギリギリの時間に家を出ているので、今朝みたいなことがあれば、間違いなく遅刻である。遅刻でなくても、満員電車の化粧を直す暇もなく、事務所に駆け込まなければならない。それに、ちょっと皮肉を含んだ、竹村課長の顔が目に浮かぶ。「キミ、またツーレートかね?」などと言われ「いえ、ビーイングレイト?です」と言い返してやりたくなるのをグッと我慢する。あ、やだやだ!
 みんなと同じに、ケータイだけにしときゃよかったんだわ。見当外れのことを考えながら鳴り続ける電話を取った。
「もしもし、私は栃木県警日光署の内山という者です」受話口から、朝方の<鈴木さんですか?>と同じと思われる声が流れて来た。
「先ほどは失礼しました。電話番号だけで、貴女のお名前も住所も分からなかったものですから、試しに入れさせて頂いたんですがね。貴女の電話と繋がりましたので、調べさせていただいた結果、品川区大井××の倉田涼子さんと分かりました。それで間違いありませんね?」
 涼子は、なぜか、仕舞った、と後悔した。何が仕舞ったのか知らないが。電話を取っただけでなくリダイアルまでしてしまったことなのか、それとも名前を知られてしまったことなのか・・・・・返事に逡巡していると、その雰囲気が相手にも伝わったのか、内山と名乗った警察官も、少々慌てた調子で、「もしもし、もしもし」と言った。
 この内山と名乗った警察官とは、すでにご存知の、白糸の滝殺人事件の栃木県警捜査主任の内山警部のことである。5月26日早朝、内山警部は、日光市滝尾神社脇の白糸の滝で遺棄死体を検分して、例の4桁の数列の入った紙片を手に入れ、署に帰って早速所在確認の電話を入れ始めたところだった。最初の<5465−1420>は、ただ今使われておりません、だった。二番目の<3478−4828>はしつこく呼び出し続けたけれど、誰も出ず。<3478−4101>は、ただ今使われておりません。<5673−7802>は四菱物産鉄鋼部の留守番電話。五番目の<3265−0649>も、ただ今使われておりません、で、6番目の<3994−3957>番、倉田涼子の電話となったわけだ。つまり、内山警部が渋谷から掛けた電話で、モタイ探偵事務所と話が繋がった数時間前ということになる。
 内山警部は最初に電話を掛けて見る捜査方針を少し後悔していた。こういうときは本来寝込みを襲う、つまり、電話の持ち主の住所氏名を下調べしておいて、突然行って抑えたほうがインパクトがある。考える暇も与えず、ゲロさせる確率も高いのだが、まさかリダイアルしてくるとは思わなかったのである。リダイアルされて、警察と分かってしまった以上、もし例の紙片の電話番号に深く関係している容疑者だったら、逃亡してしまう可能性がある。逃亡こそしなくても、もう一度電話などして事件の一端に触れるようなことにでもなれば、相手に身構える余裕を与えてしまう。これではまるで、これから逮捕に行くから、と予告して行くようなものではないか。
しかし、普通なら間違い電話で済むはずの、最初の電話のときの過剰反応とも言える涼子の対応と、リダイアルまでしてきた状況を考えると、「何かある」、と刑事の勘が告げる。「繋ぎ止めておかなくてはまずい」と思わざるを得ない。そこで、二度目の電話をいれたのである。

                        

「もしもし、倉田さんですね?」
「え、ええ、そうですけど・・・・・」
「もしもし」
「・・・でも、こちらの名前も分からず電話されたって、それはどういうことですか?何なんですか?」
「その話はお会いして伺います。県警から薗部という刑事が窺いますから、よろしくお願いしますよ。ご在宅ですよね?」
「えっ、私だって勤めがあります。もう行かなくっちゃ、遅刻してしまいます」
「ちょ、ちょっと待って下さい。会社の方はこちらから説明させていただきますので」
「そちらから?警察から説明でもされたら、何だ何だ?何をしたんだ?って、それこそ、最悪だわ。うちの課長なんて、大喜びよ、きっと」
「え、まさか、なぜ大喜びなんです?」
「会社も苦しいようだし、私が同僚とうまくいってないものだから・・・・・何とか理由を見つけて止めさせようと思ってるに違いありません」
「それは・・・・・」
「ですから、困るんです。そんなの。警察なんて・・・・・」
「では、会社には分からないようにしますから、協力して下さいよ」
「でも、私、悪いことなんか全然してませんよ。車の運転だってしないし、第一、ついさっきまで電話番号だけで、私の名前なんか知らなかったんでしょう?関係なんてないんでしょう?」
「それは、貴女が<問題の電話>の持ち主だっていうことが一番重要なんですから」
「<問題の電話>ですって?私の電話番号を使って詐欺かなんかはたらいた人がいるんですか?」
「あ、それは今は・・・お会いしてですね」
「私、お断わりしちゃったら逮捕されちゃうんですか?」
「逮捕とかそういうことではなく、捜査の関係でお話は伺わなくちゃならんのです。例えお逃げになってもですな、少なくとも行方を徹底的に探してですね、任意で同行していただかなくちゃならなくなります。そんなことが会社に知れたら、それこそ本当に困ってしまうでしょう?」
「どうしても、ですか?」
「どうしても、です」
「でも怖くてやだわ、警察なんて・・・それに取調べなんて」
「やましいことがなければ、警察は怖いことなんて決してありませんよ。それに、取調べではありません。ちょっと事情を確認したいだけでして。確認できませんと捜査が前に進みませんのでね。どうしてもお尋ねしなければならないのです」
 内山警部は絶対に解明してやる、と思いながらも、優しく言い聞かせるように言った。
「それにしてもこんなに朝早くから、どうしてですか?急なことなんですか?」
「ええ、急を要すると思われますのでこうして――」
「じゃ、ここんとこ一週間くらい、何か変な人が私の周りをうろついているような気がしてしょうがないんですけど、あれは何なんです?警察なんでしょ?」
「えっ、知りませんよ、うち(警察)は。そんなことがあったんですか?お尋ねしたいことだって、今朝知ったばかりなんですから」
「じゃあ、何なのかしら、私、ストーカーなんてされたことないし、全然心当たりもないし」
「でしたら、なおのこと、そのことも含めてお伺いしたいので、是非お家に居て下さい」
「分かりました。そうしますわ。でも、課長許してくれるかしら」
「お願いしますよ」
 電話は切ったものの、考えてみると、いつも家を出る時間よりももう二十分も遅い七時半過ぎだが、今すぐ電話をしたって課長もだれもまだ出社していない。課長だっていつも9時ギリギリに出社してくる。そうかといって、守衛さんに言伝てするわけにもいかないとなると、いくら嫌でも時間まで待って、直接課長と話をする以外にないだろう。あーあ、嫌だ嫌だ。何もかも嫌になっちゃう。
 仕方が無い。涼子はいたたまれなくなって掃除を始めた。何で私が警察を待たなきゃならないのよ。憤懣はあったが、ストーカーの話も聞いてくれるということなので、自分を納得させたのである。掃除をしながら、一旦締めたカーテンを開けて何気なく外を見たとき、向かい側の家の植え込みの角に、黒いコートのようなものがサッと隠れたような気がした。黒いコート?すぐ六月なのに!
 玄関の方でチャイムが鳴った。もう来たのかしら?
 覗き穴から覗いて見ると、白いブラウスのごく普通の女性が、胸に包みを持って立っている。
「どなたですか?」
「すみません、三階に越してきた宮本と申します。ちょっとご挨拶を・・・・・・」
 ドアを開けた途端、両脇から男が二人サッと寄って来て涼子の口を塞いだ。
 涼子の消息はそれきり途絶えた。(前回はここまで)
              *            *          *
 渋谷中央署長が洗いざらい訳を話そうと膝を叩いて立ち上がった時、刑事課の刑事が取調室のドアから覗いた。
「署長、栃木県警の薗田警部補という方から内山警部どのに電話が入っています」
「薗田警部補、ですか?栃木県警の?」と署長。
「はあ、日光署とのことでありますが。電話こちらにお回ししますか?」
「回して下さい」
「あ、お願いします。すみません、署長、こんな時に。この件で別に出てきているものがおりまして。ちょっと失礼して・・・」
「どうぞ、どうぞ」
 渋谷中央署長の顔には、なにがしホッとした色が流れたようだった。ヤクザに絡まれた人が、きょうはこの辺にしといてやる、と解放された時が、こんなだろうか。
「主任!倉田涼子に逃げられました!」電話から薗田警部補の声が響く。
「逃げられた!?家におると約束したし、そんな気配はなかったぞ。何で逃げられたんだ?」警部の大声に署長もビックリしたように見詰めている。
「自分たちは12時前に倉田涼子の家につきましたが、ドアは鍵が掛かってなく、部屋はもぬけの殻でして」
「何で逃げられたと分かったんだ?」
「犯人一味と思われるものたちと一緒に行く倉田涼子を、見たものがおるのです」
「誰だ、それは?」
「同じ階の主婦です。8時過ぎだった、とのことですが、ゴミを出そうとしていたら、いつもはもう出掛けていていないはずの倉田涼子が、3人の男女に囲まれるようにしてエレベーターに乗り込むところだったそうです。不審に思った主婦が、ゴミ袋を抱えたまま、次のエレベーターで降りて行って見ると、路地に停めてあった黒塗りの車に乗って走り去ったとのことであります」
「そいつァ 拉致されちまったんじゃあないのか?」
「いえ、倉田涼子のほうが自分から急いで行ったように見えたようです。緊張した顔つきではあったようですが、嫌々ながら連れて行かれるとか、力ずくで引き摺られて行くといった素振りは無かったそうです」
「それにしてももう4時過ぎだぞ。連絡も無しに今まで何をしとったんだ?」
「すみません。でも、警部には直ぐご連絡を、と思ったんですが携帯が繋がらなくて・・・それに倉田涼子の行方を早く突き止めなければ・・・と」
「携帯が繋がらん?私はずっと、この渋谷中央署に被疑者といたんだが・・・この建物は携帯が繋がらないはずはない・・・・・あっ」
「どうしました?」
「私としたことが・・・充電が切れとった。スマン」
「それよりいま被疑者と仰いましたか?もう被疑者が割り出せたのでありますか?」
「ああ、いや、いま怪しい奴を取り調べとるとこなんだが、怪しいには怪しいが、まだ被疑者とは言えん。まあ、こっちは首根っこを抑えとるからええが、そっちはマズイな。朝警察を名乗って電話を掛けたことが、敵にバレちまっとるわけだからなあ。で、そっちのその後の具合はどうなんだ?」
「詳しいことはお会いしてお話しますが、管理人に聞いて倉田涼子の会社に電話をしてみました。会社の方には9時ころ体調が悪いから休みたい、と本人から電話があったそうです。別に不審な感じもなかったようで、警察だ、と申しましたら会社の方は大変ビックリしておりました。あ、それに盗聴器が見付かりました」
「何、盗聴器?倉田涼子の部屋にか?」
「ええ、受話器の中にありました」
「家宅捜索したの?令状も無しに?」
「いま、大崎東警察署のデカ長さんと一緒なんですが、電話に奇妙な雑音が入るもんですから、事情話して、令状取ってもらって、管理人立会いで捜索したところ、出てきました」
「うーん、盗聴器か・・・盗聴器で先手を打たれたわけか。我々の話が一味に筒抜けだったとすると、逃亡されたのも辻褄が合うが、うーん、しかし、そんなことのために一味の中で盗聴器を置くかね?ずっと聞いとる必要があるわけだからなあ。どうも、解せんなあ。それに、逃げたモンがわざわざ会社に電話するかね?本人に間違い無いんだな」
「同僚の女性が話しをしたとのことでして、間違い無いそうです。それに、会社で経歴を調べて見ましたが、ごく普通の家庭に育って、ごく普通の短大を出て、何とかいまの会社に受かったようでして、釈然としませんねえ」
「今朝の電話も、ごく普通の気の小さい女って感じで、逃げちゃったのが信じられんくらいだしなあ。最近ストーカーを怖がっとったようだし。ま、これから大崎署のほうへ行くから、車の形式や、番号の目撃者がいないか、聞き込みしといてくれや。あ、指紋や鑑識もね」
 

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「倉田涼子に逃げられちまったよ」
内山警部は、取調室に戻ってくると、ごくさりげなく言った。目だけは隆一郎の動きを見据えている。
 クラタリョウコ?一体何者だろう?初めて聞く名前だが、内山警部にとってはなにやら重要な人物らしい。固有名詞が絡んできたので対応に気を付けないと、今までの二の舞どころか、この警部の疑惑を決定的なものにしてしまいそうである。渋谷中央署長と警部の間で、どの辺までどのような話がなされたのかは分からない。が、警部の態度を見ると、そんなに立ち入った話ではなかった雰囲気である。官房長も<山田某>で終わっている可能性がある。ここで最初のように煽ったりすると本当に一泊と言うことになりかねず、署長にも収拾が付かなくなってしまうかも知れない。
 正体が知られていないことは、取り敢えず動き易いという点では良いことだ。しかし、いずれは分かることであるし、そのときの内山警部との関係を考えると隆一郎は憂鬱になる。警部は、一警察官として職務をまっとうするために懸命であることは分かるが、人間関係としては、最早その一分を超えているのも明らかだったからだ。
「倉田涼子、あんたのコレなんだろう?」
 黙っている隆一郎の目の前に小指を立てて、警部は再び聞いた。
「知りませんよ、そんな人。どういう人なんですか?その、倉田なんとかと言う人は?」
「涼子だ」
「その倉田涼子さんが逃げちゃったことと、私に何の関係があるのですか?」
「知ってても知らなくてもそんなことあんたに言うわけにゃいかんだろうが」
「そんなことってどんなことです?」
「だから、あんたと同じように・・ちっ、聞くのは私の方だって言っとろうが!」
「なんにも教えて頂かないで、質問されても・・・」
「ふん、どうも本当に知らんようだな」
「本当に知りませんよ。でも、ほっといていいんですか?」
「もちろん、ほっとくわけにゃあいかんさ。だから聞いとるんだが」
「これは私の推測ですから、また、『何でそんなこと知っとる!』と言わないで頂きたいのですが、警部さんは最初、私の名前も事務所のことも何にもご存知なく、知っていたのはただ私の電話番号だけでしたね?」
「うん、・・・まあ、そうだ」
「一方、その倉田さんと言う人の名前も、それに類したことも、先ほどまでの私との話の中に全然、これっぽっちも出てきませんでした」
「それがどうした?」
「だから、警部さんも、さっき署長さんと出て行ってから始めて、その倉田さんの名前を知ったのではありませんか?始めて知ったということは、どなたかから連絡があったということになるでしょうし、どなたかということになると、これは栃木県警の方でしょうね」
「・・・・・」
「そこで、先ほど警部さんが戻ってきたときの様子を見ますと、どうも私と関係があるように思っとられるようですから、その人の立場は私と同じなのではないかと、つまり、倉田さんという人の電話番号も、警部さんが追っている殺人事件のガイシャの口の中にあった紙切れに書いてあったのではないかと、こう推察出来ます。つまり、電話番号は私のだけではなかったと」
「ア、 アンタねえ」
「警部さんはまだお疑いのようですが、私は事件には全く関係がありません。これは信じて頂けようと頂けまいと、事実です。私が事件に関係ないことは、私自身が一番良く知っていることからしますと、倉田さんという人も警部さんが追っている事件とは関係ありませんね」
「倉田涼子の名前は最初から知っとったさ。だが、関係ないものが逃げたりするかね?」
「ですから、そこがどうも、腑に落ちないところですが・・・どんな状況だったのですか?」
「それは・・・あんたに言うわけにゃいかんが・・・ワシはあんたの一味が逃がしたと思っとったからね」
「一味が逃がした?じゃあ、栃木県警の方が行ったときは、ただ居なかったんじゃなく、不審の点があったんですね?」
「あっ」警部は、一瞬タジタジとした。
「ただ逃げるだけなら、黙っていなくなっちゃえばいいわけですからね。それに、さっきも言いましたように、何個の電話番号があったか知れませんが、私と同じに、ただ電話番号が口の中にあっただけでしたら、その倉田さんは、私と同じに事件とは何の関係も無い人に違いないわけですから、偶然か、それとも、何らかの理由で拉致されちゃったんじゃあないでしょうか」
「うーむ・・・」
 内山警部は腕組みして考え込んでしまった。倉田涼子の名前を出しただけで、盗聴器のこともここ数日間のストーカーのことも何も言ってないのに、これだけの推理をしてしまうこの男は一体何者なんだろう?また新たな疑惑がムクムクと頭をもたげ、何でそんなこと知っとる!?と喚きたくなってくる一方で、いままで話してきて、こいつは確かに犯人じゃあないな、という実感も湧いてきたのである。ここはひとつ、もう少し聞いてやろうか・・・。
「倉田涼子の部屋で盗聴器が発見されたんだ」
 窓外の天気でも話題にするように、鉄格子の嵌まった窓の外を見たまま、警部は何気ない体で言った。
「えっ、盗聴器ですか?」
「電話機の中に仕掛けられとった」
「盗聴器ですか・・・でも、もし、倉田涼子が犯罪組織の一員だとしても、組織の方から盗聴器を仕掛けるってのは、あまり意味が無いんじゃあないでしょうか」
「うん、ワシもそう思っとる」
「しかし、警部さんがこちらに現れた時間から推察して、朝7時から8時頃には倉田さんのところに、うちの事務所にされたような電話をされとるでしょうから、その電話が拉致される原因となったことは考えられます。そのころ、私の事務所の電話は鳴りっ放しだったでしょうがね」
「アンタんとこには倉田涼子より先に掛けたから、7時半ころだったかな。もう、霞みを食らっちまったのかと思ったよ」
「盗聴ともなると、当然昨日今日の話じゃないですからね。ストーカーかデバ亀か。犯罪組織を監視する側ってのも考えられますね」
「ん?何だって?そいつは、官憲ってことかね!」
「組織には盗聴する意味が無い、ストーカーやデバ亀は連れ出さない。そこで、自分で逃げたのでなく、栃木県警の電話が引き金になって連れ出されたとすると、これはもう、何かご同業みたいなものとしか思えませんね」
「そ、そんな馬鹿な!警察がそんなことをするものか!もしそうだったとしても、こちらは日光署だと名乗っておるんだから、必ず連絡してくるわ!」
「そうですかね。警部さんの先ほどの怒りようから、これは麻薬絡みの事件に間違いなさそうですから、ヤク絡みとなりますと、警視庁や各道府県警、入管、税関の国税庁Gメン、厚労省麻薬取締局の取締官、警察庁の麻薬捜査局といろいろありますからねえ。それに、麻薬関係は囮捜査も含めて極秘捜査が多いですからね。自分達が苦労して追っとったヤマが、突然、栃木県警などというのが割り込んできて、引っ掻き回されたりでもしたら今までの苦労が水の泡、と考える人たちが居ても不思議ではないですね」
「それもそうだが、そんなこと本当にあるかなあ」
「そこんとこが私にも分からないとこなんですが、倉田涼子さんの電話番号は犯罪とは関係無い、これは先ほどからお話してきたように、ハッキリしています。でも、失踪については、やはり電話番号が関係していると考えた方がいいようですね。違った形で、同じ番号が関与して来たんではないか、と」
「関係無いはずが、関係あるってことかね。どうも、ワカラン」
「倉田涼子失踪事件の解決には、それも視野に入れていなければいけない、ということでしょう」
「こんなこと、あんたに言っていいかどうか分からんが、実は、涼子は9時頃会社に電話で欠勤することを連絡しとるんだわ。これだけだったら、私たちが家に居てくれと頼んだのだからどうと言うこともないのだが、8時頃涼子が3人の男女と出て行くのを、同じ階の主婦が目撃しとるし、ただ拉致されたとすると、どこから掛けたのか、確かに奇妙な行動だな」
「そんな事があったのですか。なおさらクサイですね。嫌がるものを連れ出すのはむずかしいですからねえ」
「分かった。ま、あんたの言う事は心に留めとこう。ワシはこれから大崎東署の方へ行かんきゃならん。ここの署長の勧めもあるし、もう帰っていいよ。だが、あんたへの疑惑は完全には晴れたわけじゃあないからな。山田某の件も残っとる。署長も協力を約束してくれたんで、証拠隠滅など図っても直ぐに分かるからな」
  この時点で隆一郎には事情は判然としなかったが、署長が内山警部を自ら呼びに出向いてきて、連れ立って行ったことを考えると、どうも山田官房長から署長に連絡があったのは間違いなさそうだ。しかし、内山警部が戻ってきたときの様子からして、山田官房長と隆一郎の関係について、どういうわけか、署長の口から語られなかったのもまた間違いなさそうだった。つまり、警部と隆一郎の間の事情は最初とまったく変わっていないわけだが、事情の分かってきた隆一郎としては、ぜひとも栃木県警の協力を得なければならなくなっている。
 昨日の夜、渋谷の料亭<よし野>で山田官房長から聞いた話と、今日栃木県警から聞いた殺人事件と倉田涼子の失踪とは、関係があるのかないのか。あるとすれば事件は広域に広がり、一県警や一省のGメンの手におえるものではなくなる。隆一郎の出番となる。
「分かりました。どうもお騒がせしました。私は逃げも隠れもしませんので、どうぞご心配なく。あ、それから、この件に関しましては、栃木県警本部長の今井さんには山田のほうから連絡が行くと思いますよ」
「えっ、い、今井本部長に!?山田のほうから?そ、それはどういうことです?」
 警部の口調が、今井本部長の名前が出て来た途端に、丁寧になった。自分でも意識していないようだ。
「今井敬之さん。栃木県警の本部長でしょう?」
「そうですが、ですが、あなたは一体?」
「ここはヘッポコ探偵でよろしいです。それより早く大崎東署へ行って、倉田涼子さんのことをお調べになった方がいいですよ。後で今井本部長に電話でも――」
「モタさ〜ん!」
「所長―ッ!」
 突然甲高い声を上げながら、二名の女性親衛隊が、ドドドと取調室になだれ込んで来た。
 内山警部が呆然と立ち尽くす脇を、肘で小突くようにして通り過ぎ、二人で隆一郎の首っ玉にしがみ付く。
「よかった、署長さんが帰っていいってよ!」と、白糸姐さん。
「こんなとこ、早くでましょうよ」と、警部を睨め付けながら城井伊都子女史が引っ張る。
「それじゃあ警部さん、いずれ、また」
 甕隆一郎は、二人の婦人警官に両脇を挟まれて連行されて行く犯人よろしく、渋谷警察署を出て行ったのであった。警部は阿呆のように、猜疑と驚愕と困惑のない混ざった眼で見送るばかりだった。
 渋谷の街並みはネオンも灯り、急速に夜の装いを整えつつあった。



・・・4につづく

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