白糸の滝殺人事件    飯田春介 著(C) 
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「発端」

                       
 まさに、白糸である。
 被害者の目に、一瞬、群青の中空から緑なす木々の間を割って落下してくる一筋の白い水流が見えた。と、それも束の間、意識は急速に薄れていった。
 頭から流れ出た血は午後の滝壺を染め、落ちた山つつじの花びらを掻き分けて徐々に範囲を広めつつあった。とうとうと落ちる単調な滝の調べは辺りの静寂をいや増し、時をも止めたようだ。
 しかし、被害者は、まだ生きていた。暫く呆然と脇に佇んでいた加害者は、気を取り直したように相手の呼吸と脈拍がしっかりしていることを確かめると、ワイシャツの腕を裂いて手際よく頭部の止血をし、肩を入れて上体を担ぎ上げた。それから、長く狭い遊歩道をゆっくりと車に帰る途中、この落日の中でもし滝見客に出会ったら、事故である事情を打ち明け、助けを求めてうまく公の場で処理するつもりでいた。被害者が意識を取り戻しても事故であることは分かっているはずだ。
 滝の駐車場まで誰にも会わず、見られることもなく辿り着いた。夕闇迫る駐車場には人影も無かった。そして、そのことが、加害者の心に悪魔的な計画を思いつかせ、単なる事故だったものが連続殺人へと変わっていくきっかけとなったのである。
 被害者の体を苦労して車のトランクに押し込めると、今からは殺人者となる決意をした男は、ディバッグを肩にかけ、滝に続く遊歩道を戻って行った。滝に着くと、さっき被害者が昏倒したとき頭を打ちつけた石を丁寧に掘り出し、血糊を滝壺で洗い流してバッグに入れた。堀り跡には砂と水を掛けてならし、血の痕跡も消し去った。
 男が立ち去ったあとには、白糸を垂れた滝の飛沫の散る音と、辺りの痕跡を包み隠すべく迫り来る夕闇の色があった。

                        
 5月26日早朝。近所の農家の夫婦が、白糸の滝の滝壺近くで死体を発見した。この夫婦は偶然死体を発見したわけではない。朝、まだ薄暗いうちに「白糸の滝で人が死んでいる」と電話で通報があり、電話に出た主婦が夫に話し、怖いもの見たさに半信半疑、恐る恐る行って見たのだ。主婦には電話の声に心当たりはなく、通報した者が、なぜ110番ではなくわざわざ近所の家に知らせるような面倒なことをしたのか、どうしてその農家の電話番号を知っていたのか、その時は分からなかった。
 死体は、滝壺の縁にある、尖った石に後頭部を打ちつけており、相当の量の血が砂を朱に染めながら滝壺に流れ込んでいた。詳しいことは検死の結果を待たなければならないが、頭蓋骨は陥没しており、傷口は打ちつけた石の形状とも大体一致しているので、その場の失血による死亡と推定された。石には死者のものと思われる髪の毛も付着している。
 自殺ではないことは一見して分かった。こんな仕方で自殺する者はいない。しかし、事故か他殺かとなると、現場ではちょっと判断がつかない状況だ。事故でこんなに見事なまでに後頭部を打ちつけて死ぬものだろうか?だが、当の石は自然な状態で砂の中から尖った頭を出しているし、他には争った形跡も別の外傷もない。栃木県警特捜班の捜査主任内山警部も判断に迷った。「こりゃあ、事故かな」
「うんにゃ、殺人(ころし)かもしんねえよ」
 死者の体を検めていた科学捜査班の出石警部補が内山警部を見上げていった。
「へっ、イズさん。そりゃ、また、どうして」覚えず声が弾む。
「そんな、嬉しそうな顔しなさんなって。不謹慎じゃねえかえ」
「殺人(ころし)とくりゃあ、ま、これからの捜査の事を考えりゃ、嬉しいわきゃなかっぺや。せっかく出張(でば)ってきたんだからね。つい」
「ま、よかろ。えーと、先ず第一にだね。失禁の位置がおかしい。ホトケはこうして仰向けになって息絶えとったんだが、これは真後ろに昏倒して頭を打ったとすると、理屈に合っとる。ただし、失禁の位置が、ほら、腰の右横に集中しとって、尻の後ろにぁあんまし無い。こりゃ、理屈に合わんとしたもんだ」
「するってえと」
「違う姿勢で死んだ可能性もあるってことだ。ま、即死ででもなきゃ多少は動くんで、決定打にゃならんけど」
「なるほどね。それで第二は」
「そんなに急ぎなさんなって。第二番目。靴の裏にあんましここの泥が着いとらんな」
「ま、それは転ぶ前に水のところを歩いたかも知らんしね」
「それは、考えられる。靴も濡れとるし・・・。ただここはずっと岩場だもんで、死体を運んだとしても跡が残らんで、事故とは断定出来んちうことさ」
「どっちもあんまり決め手にゃならんなぁ」
「三番目。どうも、ガイシャの正体が分からんね。服装とか髪形なんぞに、何かチグハグでシックリしないものがある。日本人じゃあないかも知らん」
「それは俺も感じとったが、だからってコロシに繋がるわけでもないけどね」
「そりゃそうだが、中国人で、腕の静脈のここんとこに、ほら、こんな黒ずんだ跡があるってえと、只じゃ済まんよ」
「えっ、そりゃ、ヤクの注射跡かえ?」
「慢性病ってこともあるが、まあヤクやっとったんじゃろねえ。血ィ見てみりゃわかるじゃろ」
内山警部は、事件が弾けて無限の空へ一挙に広がって行くような感覚に襲われた。
「ヤクがらみか。こいつは・・・だが、もうちっとなんか、こう・・・」
「へへへっ」
「なんだ、おい、イズさん。変な笑い方するなよ」
「毒物の兆候がないか口の中を調べとったら、奥歯と頬の奥の間にこんな物が挟まっとったよ。咄嗟に口に入れたんじゃろな」白いものをピンセットでつまみ上げて、ヒラヒラと振って見せる。
 内山警部がピンセットをひったくるようにして陽で透かして見ると、唾液に塗れた小さく巻かれた跡のある紙に、一連の数字が並んでいる。

     5465 1420
     3478 4828 4101
     5673 7802
     3265 0649
     3994 3957
     6251 1530

「電話番号みたいだな」出石警部補が肩ごしに覗き込みながら指摘した。
「四桁のダイアル局番があるのは東京と大阪だけだ。確かに、東京は一番頭が3と5で大阪は6と4だから、電話番号だね、こりゃ」
「二行目の4101ってのは何じゃろ」
「局番が同じで、持主も同じってことじゃないかな。5465とか3478ってえのは確か東京の渋谷近辺の局番だよ。従兄弟が住んでるんだ。ここからが始まりだな」
内山警部は壊れ物を扱うようにして、紙片をビニール袋に収めた。
「司法解剖して見れば色々分かって来るじゃろうて」
 出石警部補が呟いた。
「あの農家に電話を掛けてきた奴もおるしね」と、内山も滝を見上げて息をついた。
小径を上がって来る梨田検死官の白衣が見えた。



[芸者白糸]

                         
「客だ客だと笑わせやがら! 花代返せばポチポチだ。この白糸姐さんを何だと思ってるんだい」
 突然、隣の広間から女の甲高い声が、美空ひばりのべらんめ芸者そのままの台詞を吐きながら、飛び込んできた。続いて、「そんなお前」だの「客を何だと思ってやんでえ」、「止めなさいよ、もう」、「あっ、イテテ、噛みつきゃがったぞ」、「早く抑えてしまえ」などという言葉が、バタバタと音に混じって聞こえて来る。
「何すんだい、お放しよ、放せって・・ば」
 騒音に混じっていた女の声がだんだん少なくなってきた。いよいよ危うくなってきたらしい。「早くひん剥いちまえ」勝ち誇った声が騒がしく宣言している。
 廊下ひとつを隔てた隣の部屋では、二人の男が額を合わせるようにひそひそと話しながら杯を交わしていたが、あまりの騒ぎにいよいよ無視できなくなって、眉をひそめ、顔を見合わせた。
「おい、モタさんよ」一人がもう一方に顎をしゃくって、「仕方ないから行ってやれよ。市民としちゃあ当然の義務だろ」
「嫌なこった。あんたこそ、まあ、警察官だろ?国民の治安を守る義務があるじゃないか。いつも柔道六段を自慢しとるくせに」
 モタさんと呼ばれたほうはムキになって反論する。
「俺は駄目だ。ここに居るのだってお忍びちうことになっとることは分かっとるじゃあないか。『現職の警察庁官房長、傷害事件に巻き込まれる』なんて出てしまったらそれこそアウトだぜ。そうなりゃ、君だって困るだろ」
「そんなもん・・・、俺だって顔が知れると困っちまうのは良く知っとるはずだ。さっきも言ったように、最近得体のしれんヤツがウロチョロしとって、商売に差し支えるんだよ」
「”商売”、か・・・でもな、俺かあんたか二人に一人、どっちか行かなくちゃならんとなったら、どっちがいいかだ。現職のだね・・・」
「畜生、分かったよ。いつもこうなんだから」
 甕(もたい)隆一郎はブツブツ言いながら腰を上げた。
 甕隆一郎。通称モタリュウ。モタイ探偵事務所の所長である。所長といっても所長兼小使兼調査員と、何でもこなさなければならない。パートの事務員城井伊都子への給料も最近の不況で依頼者が少なく、なにがなし滞る始末である。
 甕という名字も、誰も正確に読んでくれないので、モタイと片仮名にしている。カメは普通の読み方なので仕方ないが、ヘイ、などはまだ良いほうで、ヘッツイ、カワラ、と呼ばれたりする。一回だけ正しく呼んでくれた男は何でも信州上田の出身で、そこには同様の姓があるとのことだ。隆一郎の先祖も佐久の御代田という、東信州の出である。
「むーん」
 手拭いかなんかで口を塞がれたような呻き声がして、事態は本当に切迫してきているようだ。隆一郎は廊下を横切って、さっと隣の部屋の格子戸を開けた。
 料亭<よし野>は若者の街渋谷の片隅、京王井の頭線神泉駅近くの円山町の一角の、時に忘れ去られたような所にある。渋谷円山町といえば、歌謡曲「花街の母」にも歌われたように、昭和三十年代には高級老舗料亭が軒を並べ、そこかしこから三味線の音、通りを行き交う島田くずしの芸姐衆の下駄のカラコロいう音などが響いて、さながら温泉街がそっくりそのまま移動してきたような華やかさに溢れていたものだ。
 時代の波は、若者の進出とともに真っ先に渋谷の遊興街に押し寄せた。瀟洒なラブホテルにとって代わられた街並から、打ち水盛り塩の料亭とともに芸者の姿も少なくなって行き、昔日の面影は無くなって久しいが、<よし野>の周りだけは、未だに古き残像があった。
 隆一郎が部屋の中を見回すと、数人のオドオドした男たちに囲まれて、明らかに鳶職然とした角刈りの男が、酔った勢いで芸者に馬乗りになっており、もがく女の帯を解こうとしている。酒屋のオッサン風の男が片方の手をひざ下に組み敷き、頭と口を押さえつけ、長髪の三十がらみの男が芸者の両足の上に自分の両足を載せて押し広げようとし、金縁眼鏡を掛けた気の弱そうな男が、女のもう一方の手にすがりついて、何やら喚いていた。
「や、やめなさいよ、もう」と、金縁眼鏡。
「なにをッ、オメーが一番先に言いだしたんじゃねーか。今更何を」と、鳶風が大見得を切る。
「あれは冗談、冗談で言ったんだー」
「冗談だーッ? 冗談でも何でも」
 鳶風と長髪の男は、酔いに任せて騎虎の勢い。なおも作業完了に向けて突き進まんとする。金縁眼鏡はオドオドしていたが、とうとう廊下に走り出て行ってしまった。
「逃げるな、コラーッ」鳶風が喚く。
「いい歳こいて、止めなさいよ」
隆一郎がそう言いながら鳶風の肩に軽く手を掛けたとき、突然目の前に拳がバカでかくなり、次の瞬間には、視界が真っ暗となって昏倒してしまった。

 どのくらい経ったのだろう。頭はガンガンと痛いし、耳はツーンと鳴り続けていて、目もボンヤリしていたが、徐々に、丸い眼鏡の中から覗き込んでいる白衣の医者の顔が形を成して来た。白粉を厚く塗りたくった上に紅で目と唇を赤く引いた芸者の心配そうな顔。それに、角刈りと長髪と酒屋のおやじ風がひざ小僧を揃えて神妙な顔付きで横に座っている姿は、酔いも何もすっかり醒めきってしまったと見える。少し離れた所に、あの気弱そうな金縁眼鏡と取り巻き連数人。よし野の女将と番頭。
「この床屋の八公が」と、角刈りが長髪の頭を小突いて、「昔ボクシングをやっとって、バカ力なもんで」
「馬鹿者! 一番悪いのはお前だ! いい気になりおって何が八公だ。幸い当たりどこが悪く無かったからええようなものの、警察沙汰にでもなったらどうするんだ!」
「へえ、すんません」
「わしに謝ったってしょうがなかろ。この人に謝るんだろが?」
「えらい、すんません」
「チッ、なんてえ謝り方だ。謝りようもあろうってもんだ。こんな馬鹿だでお腹立ちもありましょうが、どうか許してやってくれませんか。おい!ハチ公、殴ったのはお前じゃないか。黙っとる馬鹿がいるか!早くお詫びをせんか!」
渋谷の忠犬像みたいに小首を傾げてボーッとしていた長髪が、慌てて座り直すと、
「酔って・・・そのう、源ちゃんが・・つい手が出てその・・すんませーん!」
「あっチャー、駄目だこりゃー。馬鹿ばっかりだ。町田先生、あんたが一緒に居てなんでこんなことになるんですか。鳶の源公や、床屋の八っつぁんならまだしも・・・」
 丸眼鏡の医者は、あの気の弱そうな金縁眼鏡をジロリと見、町田先生と呼びかけて責めた。金縁眼鏡はいっそう縮こまって、俯いた。
「あの、町田先生がオレを」と、鳶の源公が口をはさもうとすると、
「馬鹿野郎、お前は黙っとれ!」
 丸眼鏡の医者は何度目かの馬鹿を口にすると、鳶の源公の頭をポカリと殴った。
「あっ、堀田先生!」
「こんなことしやがったんだから、当然だ。文句あるか?」
「殴ったのは八公の奴だ」
「まだ言うか!」
 堀田先生はさっきより強く、ポカポカと立て続けに殴った。
「ひえッツ」鳶の源公は頭を抱えるは、よし野の女将が止めに入るは、白糸が八公を引っ掻くは、酒屋のおやじ風がまたそれを止めに入るはで、場は再び騒然となった。
 隆一郎には、堀田先生と呼ばれる町医者がこの近辺の有名人であり、尊敬もされている事が分かったし、堀田先生がこの場をうまく収めて、警察沙汰や裁判沙汰になったりしないよう腐心していることも、良く分かった。しかし、それにしても、時に忘れ去られたような街とはいえ、この東京のど真中渋谷に一時代前の典型的な町医者タイプの人物が残っていたというのも、また驚きであった。
「好い気味よ!当然の報いだわ!もう口惜しいったりゃありゃしない。妾も!」
 べらんめ芸者も、また悔しさが込み上げてきたのか、鳶の源公に掴みかかろうとするのを、隆一郎が押し止めた。脂粉の香りが鼻腔をくすぐり、胸の膨らみに手が触れた途端、鳶の源公の気持ちが分かったような気がした。
「し、白糸姐さんといったね。そんなに金切り声を上げちゃあ、折角のいい姐さんが台無しだ。私が言うのも変なもんだが、みんな悪い人達じゃなさそうだし、堀田先生もああ仰っているんだから、許してやって下さい」
 隆一郎だって頭はがんがんするし、目の周りもひりひりと痛いが、脂粉の香りに誘われて、思わずミエを張ってしまった。鼻は血が残ってぐずぐずしている。目の周りはすでに痣が出来ているだろうから、きっと見られた姿ではなかろう。しかし、目の前に島田が揺れ、膝の上に手が添えられているとあってはむべ山風を嵐と言うものだ。
 ことの起こりは誠にたわいのないことだった。来るべき金王八幡様の御祭礼の打合せに名を借りた町内会の集まりに、八っつあん源さんをはじめ十人ほどが列席して和気藹々と始まったのは良かったのだが、大分御神酒が入ったころ、妙齢な小股の切れ上がった白糸姐さんが来て座がおかしくなった。
 なんとその<小股の切れ上がった>と言う言葉の意味が発端だったのだ。
「おっ、コマタの切れ上がった姐さんが来たね」、と町田先生。
「なんでい?コマタがどうしたって?」、と鳶の源公。
「ああいうスラッとした姐さんみたいな女(ひと)を、コマタの切れ上がったいい女っていうんだよ。でも、コマタってなんなんだろ」
「けっ、猫又だか大股だか知らんが、股のことにゃあちげえねえ。それが切れ上がるってえのは、どう言うこってえ?女は股が切れ上がっとるのは当たり前えじゃねえか。男は切れ上がれねえ」
「そ、そういう意味じゃあ・・・もう・・・」
「なんでえ、じゃあ、コマタの切れ上がった、っつうのはどういう意味だってんだ?」
「人より足が長くて粋に見えることさ」
「やっぱり、股が切れ上がっとる分だけ足が長く見えるんじゃねえか。んじゃあ、ここの女将なんぞはさしずめ切れ下がっとるんだな。んでも、この姐さんが切れ上がっとるってなんでわかるんだ?えっ、町田センセーよう」
「こんな様子のいい姐さんだから、何でもそう言うんだよ」
「そんなに言うんだったら、どのくらい切れ上がっとるか、見てやろうじゃあねえか」
「そうだ、そうだ。見せてもらおうじゃん」と床屋の八がはやし立てる。
「っていうわけで姐さん、ちょっと見せてもれえてえんだがね」と鳶源。
「冗談お言いでないよ。あたしゃそんな座布団芸者みたいな真似は出来ないよ!お前さんがた正気なのかえ?脳味噌がお酒で溺れたんじゃあ」
 白糸姐さんは柳眉をつり上げて衣紋を締めた。その姿がまた色っぽい。なんじょうたまろうあぶく銭。
「客に向かってなんだと!おい八、お前足を抑えろ」、とあとは騎虎の勢いで冒頭の修羅場となったわけだ。コマタなんぞはもうどうでも良い。どうでも、白糸姐さんのを見てやろうという・・・・
「卑怯者は町田センセーだ。途中でこそこそ逃げてったじゃん」と床八。
「まだ言うか!」
 堀田先生がまた、八をポカリと殴った。
 山田官房長ドノの姿はすでにそこには無かった。

                       
 隆一郎のモタイ探偵事務所は、割烹<よし野>から六百メートルほど渋谷駅に寄った道玄坂にある。<よし野>の近辺の静かな佇まいにくらべれば、まさに都会の喧騒と雑踏のなかである。
 事務所ビルの一階はラーメン屋で、鰻の寝床のように奥に細く長く伸びている。十五、六人座れる止まり木のドン詰まりが厨房入口で、なかなか小体な店構えだ。自動ドアのところには、[宍戸梅軒]という粋なのかふざけているのか分からないような名前と、鎖鎌の絵が描いてある。そのラーメン屋の横の狭い通路の突き当たりが六階までのエレベーターとなっている。
 翌朝、といっても12時近く、隆一郎は、仕込みに忙しいラーメン屋店主董さんと顔を合わさないようにして通廊に滑り込み、まだ触ると痛む鼻を気にしながら、エレベーターのボタンを押した。目の周りもパンダようの青黒い痣となっている。昼飯どきには董さんに詰問されるのは覚悟の上だが、なに、どうせ何時ものこと、事務所に客などは来やしないんだ。
 と、居た。客? 四階の事務所のある階でエレベーターを出ると、事務所のドアの前に三十少し前だろうか、背のスラリとした薄いピンクのブラウスの女性が佇んでいる。目も鼻も口も細めで、どちらかと言えばキツネ顔だが、とても上品な感じの美人だ。背も顔もスラリとして見える。隆一郎は、途端に、きのうの<コマタの切れ上がった>という言葉を連想した。
「あっ、先生! 昨晩は本当にありがとうございました」
 女が深々と頭を下げる。
「えっ、はあ、突然ありがとうって仰ってもね・・・昨晩って、どちらさんでしたっけ?」
「嫌だア、お忘れになっちゃあ。私ですよ、わ・た・し・・白糸!」
「えっ、白糸、姐さん? あなたが? あの、白糸姐さんなの?」
「ええ、本当に大恥を掻くところを助けていただいちゃって、何とお礼を申したらよいやら・・・」
「へええ、あなたがあの白糸姐さんか。きのうは白粉が濃くて、何だか玉子に細い目鼻を描いたような顔だな、とは思っていたけど、いやこりゃあ失礼」
「そんな! あれは営業用の顔ですよ、営業用。こちらが本物ですわ、オホホ」
 上品で清楚な感じでありながら、こうした言葉がぽんぽん出てくるところは、なるほど、白糸姐さんのものである。
「そっかあ。白糸姐さんて、こんな顔だったんだ」
「こんな顔で失礼しました」
「あっ、そう言うわけじゃなく、こんな美人だったかと・・・」
「うふふ、無理なさらなくってもいいですわ。私、もう決めちゃったんですもの」
「えっ、決めちゃったって、何をですか?」
「先生の事務所のお手伝いをさせていただきますの。だって昨日、バイトの女性がときどきしか見えなくって、所長兼調査員兼小遣いさんだって仰ったじゃありませんか。この白糸がお世話させていただきますわ」
「そんな、急に言われても・・・第一、この不景気であんまり仕事が無いんで、職を変えようかなって思ってるくらいで、給料をお払いする余裕なんて、とても、とても」
「お給料なんていただきませんわ。夜のお座敷を止めるわけではありませんし、昼間はときどきお稽古だけ。暇なんです。ね、先生お願い。お傍でお手伝いさせて下さい」
「給料いらないって・・・そんなボランティアみたいなこと頼めませんよ。困ったな、どうも。ちょっと痣をこしらえたくらいで、こんなむさ苦しいとこに、無理して・・・」
「無理なんかしてません! 先生のお傍に居たいの。居させていただきたいの!」ぴんからトリオの<涙の操>みたいなことを言う。
 しかし、ヒタと見詰めてくる白糸姐さんの、ヌレヌレとした瞳の中に慕情の色を認めて、隆一郎は一瞬ドキッとし、我にも無く慌てふためいてドギマギしてしまった。こいつは不味い。何だか夢の中をスローモーションで揺れているみたいだ。四十年近い人生で、まあ、モテない方であったことは間違いない。理由(わけ)あって独身を通しているが、昨日の今日で、こんな美人のべらんめ芸者が・・・こいつあー、不味いぞ!
「ズッとここでお待ちだったんですか? と、とにかく、こんなとこじゃあ何ですから、中に入って」
言ってドアを開けた途端、後悔した。いったん中に入ってしまえば、了承したも同然になってしまうではないか。それに、こんなちっぽけな、仕事も来ないような探偵事務所でも、他人に見られたら困るような書類もある。机上に放りっぱなしになっている。現に、もう白糸姐さんは、自分の事務所のように楽しげに歩き回り、物珍しげにあちこち見回しているではないか。
「姐さん、まあ、こっち来て座っとって下さい」
 隆一郎は接客用のソファを指差して白糸姐さんを呼んで、慌てて机の上に放りっぱなしの書類を机の引き出しに押し込んだ。
「先生、"姐さん"はお座敷だけにしていただきたいわ。私、田中明子。明子って呼んで下さい」
「あなたこそ"先生"は止めて下さいよ。モタイでも隆一郎でも、どっちでもよいですから。友人はモタリュウなんて呼んでますよ」
「いいえ、私にとっては"先生"が一番。ねっ、センセ!」
「困ったなどうも。浮気調査が主の、食い詰めへっぽこ探偵で、明智小五郎じゃあないんですから」
 その時、珍しく一本きりの電話が鳴り出した。この事務所では、電話はおおむね掛ける物であり、受け取る物ではないことになっている。隆一郎の動作が一瞬遅れた。その隙に白糸姐さんの手がスッと伸びて受話器を取り、あれよあれよという間に、ごく自然の態で電話に出てしまったのだ。
「もしもし。・・・いえ、こちらはモタイ探偵事務所でございます。・・・ええ、今所長と代わりますので。・・・カタカナでモタイでございますが。・・・はいっ?4101番でございますか?ちょっと、お待ちください。・・・([隆一郎に]この事務所に4101番という電話もありますの?・・・[隆一郎]この一本だけですよ。)・・・あ、もしもし、そのような番号の電話はありませんが・・・失礼ねッ!そんなこと知るもんですか」ガチャン!
 白糸姐さんは最後には憤慨して受話器をガチャンと置いた。言葉付きに似合わぬ態度である。
「変なお電話ですのよ。最初は『鈴木さんですか?』って仰るもんですから、『いえ、こちらはモタイ探偵事務所でございます』って・・・」
 隆一郎は傍でナンバーディスプレイを見ていたが、184で掛けたものらしく相手の番号は表示されていなかった。
                        
とにかく、白糸姐さんと相手の電話を再現すると次のようになる。
白「もしもし」
相「鈴木さんですか?」
白「いえ、こちらはモタイ探偵事務所でございます」
相「渋谷の私立探偵の事務所ですか?素行調査とか浮気調査の?」
白「ええ、今所長と代わりますので」
相「あっ、代わってくれなくていいです。モタイはどういう字をかくのですか?」
白「カタカナでモタイでございます」
相「そうですか。でも4101番の方に掛けても繋がらないんですが」
白「はいっ?4101番でございますか?ちょっとお待ち下さい」
白(隆一郎に)「この事務所に4101番という電話もありますの?」
隆「この一本だけですよ」
白「あ、もしもし、そのような番号の電話はありませんが」
相「『現在使われておりません』というアナウンスが出てしまうんですが、何か怪しいなあ。以前は使っていたんじゃないですか? 嘘を言ってはいけませんよ」
白「失礼ねッ!そんなこと知るもんですか」
 ガチャン。

                        
「確かに奇妙な電話ですねぇ。始めは間違い電話みたいだったのに、この事務所のことをしつこく聞きたがったのですか?」
「いえ、この事務所っていうより、変な番号の方を知りたかったみたい」
「ふーむ。どうもこれは電話番号の方から、相手を確認しているみたいですな。鈴木さんや中村さんですか、と言うのは良くある手で、大きい会社だったら一人くらい居ますからね。話のキッカケになるんですよ。私もよく使います」
「じゃあ、名乗らなかった方が良かったかしら」
「いや、こっちも客商売ですから、名乗らなくっちゃあね。結構ですよ」
「おはようございま〜す」
 その時、12時のチャイムの音とともにドアがパタンと安普請の音を立てて開き、渋谷の喧騒を連れてメガネの城井伊都子が飛び込んできた。隆一郎と白糸姐さんが親しげに話しているのを見ると、とくに姐さんがスラリとした美人であるのを見ると、不信感も顕に言った。
「あっ、お客さんですかぁ?」
「アルバイトの方ね。私、田中明子と申しますのよ。今日から先生の面倒は私が見させていただくことになりましたので、あなたはもう結構ですわ」
「もう結構ですわって、所長! この女は何なんです?」
「円山の白糸姐さんさ、ちょっとわけがあってね」
「白糸姐さんって、芸者ですか? 芸者風情にこの事務所が勤まるもんですか!」
「ちょっと! フゼイとはなによ! 先生のことはこの白糸が愛情をもって」
「へんっだ! 何が愛情よ! 愛情だったら私だって誰にもまけませんよ〜だ!」
「ちょっ、ちょっと待ってください。二人とも冷静に、冷静に。白糸姐さん、いやさ明子さん、まだお願いすると決まったわけじゃないんだから、勝手に城井さんを止めさせてもらっちゃあ困ります」
「そら御覧なさい。勝手なことを言ったって所長が許しませんよ〜だ」
「先生、こんな女のどこがいいんですの?」
「困ったなあ、そんな問題じゃあ・・・」
「何よ!」
「何さ!」
 白糸姐さんと城井伊都子は、ぷっと膨れると、お互いにプイと背中を向けてしまった。
 この場合どう贔屓目に見ても白糸姐さんの方が強引でムチャクチャだが、もう帰らない、決めた、と言って居座ってしまい、自分も憎からず思っている女性をどうしたものか? ドアを開けて突き出す? それとも不法侵入、不退去で警察を呼ぶ? 追っても追っても付いて来る愛らしい小犬をどう処置すればいいのか? 蹴飛ばす? 保健所を呼ぶ? それとも・・・?
「ま、ま、二人とも待ってくださいよ。参ったなあ、もう」
 隆一郎は溜息をつくと続けた。
「じゃ、こうしましょう。白糸姐さんはこの事務所に遊びに来ているんです。いいですか、遊びに来ているんですよ。いくら遊びに来ていてもいいですが、その代わり仕事はお願いしません。退屈ですよ、こんなとこに居たって。伊都ちゃんには今までどおりお手伝い、お願いします」
「さすが所長ね! でも、こんな狭いとこにこんな女に遊びに来られちゃ仕事の邪魔で仕方ないわ!ねえ」
 途端に白糸姐さんの顔が見る見る崩れると、ワッと泣き出した。洋の東西を問わず、男は女に泣かれると、どうしたらいいのか分からなくなる。伊都子は腕組みをして冷ややかな目付きで見ている。
「私、心からお仕えして差し上げようと思っておりましたのに、それを、・・・それを、・・・遊びだなんて、酷いわ、酷いわ」
 しゃくり上げながら言いたいことは言う。このべらんめ芸者が泣くなんて、・・・内心舌をペロリと出しているのではないか・・・こんな思いに駆られながらも、隆一郎は宥めにかかった。
「分かった、分かりましたよ。こうなりゃ、もう、ヤケクソだ。二人ともお手伝いをお願いしますよ。でも姐さんには」
「明子と呼んでください!」
「あ、明子さんにはお礼は出来ません」
「ええ、ええ、もう良くってよ、モタさん」今、泣いたばかりの顔がぱっと輝き、満面の笑顔となったのだから、現金なものだ。
「伊都ちゃんには今までどおりお手伝いしてもらって、給料をお支払いします」
 伊都子も不承不承ながら頷いた。
 その時、入口のチャイムが鳴った。
 城井伊都子が動くより早く、白糸姐さんの方がドアにサササッと駆け寄ると、サッとドアを開け、来客と顔を合わせたと思ったら、またバタンと閉めてしまった。
「先生! 早くお逃げになって! とても目付きが悪い人が二人も居ますわ! 早く」
「逃げろって、まあ、慌てないで下さいよ。明子さん、落ち着いて。それに、逃げるったって、そのドアしか出口がないじゃあありませんか」
「先生は、私がお守りするんですの」
 白糸姐さんはまた肩を怒らせてみせる。城井伊都子は呆れ顔である。
「ヤクザですよ、きっと」姐さんの柳眉はまだ逆立っている。
「依頼人かも知れませんからね、そうじゃないとは思うけど」
 それでなくとも、商売柄か、最近身辺が何となくキナ臭くなっているのは確かで、隆一郎もそっとドアを開けた。


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滝好きの読者への挑戦状
 この物語は、一般読者向けに書かれておりますが、滝好きの読者がご覧になると、明らかな矛盾点がいろいろと見えて来ます。警察も理解し得ない矛盾点がこのミステリーの根幹をなしておりますので、敷衍して推理して行きますと、この事件の全容、トリック、著者の意図するところが、滝好きのあなたには分かると思います。