明治34年(1901年) JASRAC No. |
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箱根八里 | |||
作詞:鳥居 忱(まこと) 作曲:滝廉太郎 歌唱:中学唱歌 制作:滝野細道 |
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箱根大観山より芦ノ湖・富士山と笠雲 Photo by Hosomichi (C)1998 「箱根八里」はこちら |
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【第一章 昔の箱根】 箱根の山は 天下の嶮 箱根の山は 天下の(てんかの=この国(世)中で一番の)嶮(けん=険しいところ) 函谷關も 物ならず 函谷關も(かんこくかんも=中国長安の都を守るため険しい谷合に設けた関所も) 物ならず(ものならず=ものの数ではない、比ぶべくもない) 萬丈の山 千仞の谷 萬丈の(ばんじょうの=1丈は10尺約3.3mで、非常に高い)山 千仞の(せんじんの=1仞は1尋に同じで約6尺、2m弱で、非常に深い)谷 前に聳え 後に支ふ 前に聳え(そびえ=万丈の山がそそり立ち) 後に(しりえに=背後に)支ふ(さそう=千仞の谷が八里道を支える) 雲は山を巡り 霧は谷を閉ざす 雲は山を巡り(=雲は山をよこぎったり、山頂をかすめて流れ) 霧は谷を閉ざす(=霧は蓋をしたように谷底を隠して湧き立っている) 昼猶闇き 杉の並木 昼猶闇き(ひるなおくらき=日中でも木の下闇で暗い) 杉の並木(=関所前の杉並木) 羊腸の小徑は 苔滑か 羊腸の(よぅちょうの=山羊の腸のように曲がりくねった)小徑は(しょうけいは=小道) 苔滑か(こけなめらか=苔が一面にむして滑り易い) 一夫關に当るや 萬夫も開くなし 一夫(いっぷ=一人の男・兵が)関に(かんに=関所に)当るや(あたるや=護りにつくや) 萬夫も(ばんぷも=万の男・軍勢が攻めても)開くなし(ひらくなし=関所を落とすことができないような要害だ) 天下に旅する 剛毅の武士 天下に(てんかに=国中を)旅する 剛毅の(ごうきの=意志が強くくじけない)武士(もののふ=武家)(Wikipedia では剛毅を<剛氣>としているが、二番では<剛毅>のまま) 大刀腰に 足駄がけ 大刀腰に(だいとうこしに=刀を落とし差しに) 足駄がけ(あしだがけ=素足に高下駄をつっかけて) 八里の岩根 踏み鳴らす 八里の岩根(=岩だらけで険しい八里に及ぶ道を) 踏み鳴らす(=下駄の音も高らかに堂々と闊歩する) 斯くこそありしか 往時の武士 斯くこそありしか(かくこそありしか=このようなものであったのだろう) 往時の武士(おうじのもののふ=昔の侍は)(往時を往事としているものがある) |
【第二章 今の箱根】 箱根の山は 天下の阻 箱根の山は 天下の阻(てんかのそ=国一番の険しい地形、険阻な道)(阻を岨としているものがある) 蜀の棧道 數ならず 蜀の棧道(しょくのさんどう=中国三国志の時代、劉備は魏の曹操に追われ、五丈原から現在の四川省に逃れるため険阻な断崖に沿って桟道を作り、追っ手を撃退しながら四川の地に入り<蜀>を建国した。以後<蜀の桟道>は諸葛孔明に戦略として利用される。<桟道>は、<木曾の桟(かけはし)>のように<はし>が付くことから吊橋のたぐいと思われがちだが、棒杭をピトン(ハーケン)のように崖に打ち込んで、それを繋げていく道のことである。 數ならず(かずならず=物の数ではない。一番には<物ならず>とあり、比較の対象にもならないという同意) 萬丈の山 千仞の谷 (前出) 前に聳え 後に支ふ (前出) 山道の急カーブを曲がると前方が険しい山後方が深い谷という光景が出現する。嶮山の中腹に取付けた道を想像 雲は山を巡り 霧は谷を閉ざす (前出) 昼猶闇き 杉の並木 (前出) 羊腸の小徑は 苔滑か (前出) 一夫關に当るや 萬夫も開くなし (前出) 山野に狩する 剛毅の壯士 山野に狩する(=江戸時代箱根山中で狩をすることは関所があったため眼が厳しかった。明治に入って自由となり壮健な者達が狩をおこなった)剛毅の壮士(ますらお=意気盛んな若者のことだが、自由民権運動論者や街頭で公然と政治を語るものも壮士(そうし)と呼んだ)(壮士を最初から<ますらお>と読んだか判然としないが、その結果からか近時は<健児>などと漢字表記するものがある。Wikipedia は<ますらお>と平仮名にしている) 猟銃肩に 草鞋がけ 猟銃肩に(=明治34年頃には元込め式の猟銃が普及していたと思われる) 草鞋がけ(=狩猟スタイルはニッカボッカにブーツハンチング帽だったが、壮士は昔ながらのスタイルで草鞋を履いて山野を駆け巡った) 八里の岩根 踏み破る 八里の岩根 踏み破る(=踏破と同じ意味合い) 斯くこそありけれ 近時の壯士 斯くこそありけれ(=このようであってほしいのだが) 近時の壮士(きんじのますらお=近頃の壮士は) |
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*2008/DEC/30 |
滝廉太郎(1879年8月24日〜1903年6月29日)は父が内務官僚の子として東京に生まれ、1894年に15歳で東京音楽学校(現芸大)に入学し、作曲とピアノにメキメキと腕をあげて行きました。1901年4月、ドイツのライプツィヒ音楽院に文部省外国留学生として将来を嘱望されて留学しましたが僅か2ヶ月あまりで結核を発症。帰国後大分で療養していましたが1903年23歳の若さで死去しました。この「箱根八里」を始め「荒城の月」、「花」は1900年、「鳩ポッポ」、「お正月」は渡欧の1901年に作曲されており、誠に早すぎる夭折でした。 鳥居忱(とりいまこと:1855年6月17日〜1917年5月15日)は安政の江戸の大名家に生まれました。先祖は関が原の戦いの折、伏見城の守護を命ぜられ、五度の戦で討ち死にした鳥居元忠です。この「箱根八里」のほか「三河武士」が有名です。 |