明治34年(1901年) JASRAC Code No.031−0174−6
荒城の月      解釈はこちら

作詞:土井晩翠(PD)

作曲:滝廉太郎(曲リスト)PD
MIDI制作:滝野細道
   
    Illustrated by Hosomichi

(一)
春 高楼の 花の宴
めぐる盃 かげさして
千代の松が枝 わけ出でし
むかしの光 いまいずこ

(二)

秋 陣営の 霜の色
鳴き行く雁の 数見せて
植うる剣に 照りそいし
むかしの光 いまいずこ

(三)
今 荒城の 夜半の月
かわらぬ光 誰がためぞ
垣(かき)に残るは ただかつら
松にうたうは ただ嵐

  (四)
  天上 影は 変らねど
  栄枯は移る 世のすがた
  写さんとてか 今もなお
  ああ 荒城の 夜半の月
童謡・唱歌 懐メロ 八洲秀章&抒情歌    *07/9/1 「細道のMIDI倶楽部」TOPへ

瀧廉太郎(たき・れんたろう、1879年(明治12年)8月24日〜1903年(明治36年)、東京
出身)は西洋音楽の先駆者として大いに将来を嘱望された天才音楽家でしたが、24歳
で早世しました。15歳で東京音楽学校(現:芸大)に入学するや作曲やピアノにメキメキ
と頭角を現し、当時翻訳音楽全盛の時代に、日本人の手になる日本人の歌曲「荒城の
月」「箱根八里」「花」などを発表しました。1901年(明治34年)ドイツのライプツィヒ音
楽大学に官費留学するも、肺結核という病を得て、わずか2ヶ月で帰国を余儀なくされ、
豊後竹田で療養していましたが、当地で死去しました。早世はしましたが、瀧の残した歌
曲は今尚燦然と輝いております。

上記の歌詞は全音の楽譜によるものですが、下記の原詩とされるものと比べて仮名使
いは別としてかなり相違しております。

(一)
春高楼(かうらう)の花の宴 巡る盃(さかづき)影さして
千代の松が枝(え)分け出でし 昔の光今いづこ
(二)
秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁(かり)の数見せて
植うる剣(つるぎ)に照り沿ひし 昔の光今いづこ
(三)
今荒城の夜半(よは)の月 変はらぬ光誰(た)がためぞ
垣に残るはただ葛(かづら) 松に歌(うと)ふはただ嵐
(四)
天上影は変はらねど 栄枯(えいこ)は移る世の姿
映(うつ)さんとてか今も尚(なほ) ああ荒城の夜半の月


土井晩翠(1871年(明治4年)12月5日〜1952年(昭和27年)10月19日、仙台出
身)の詞はかなり高踏的ではあるものの、自分が荒れた城址に立って往古偲んでいる
姿を想像して見れば、<植うる剣>は別として、あまり難しいところはありません。「百
代の過客たる光陰は、城の栄枯盛衰のさまを同じ月の光で照らして来たのだな」とい
うほどの意でしょう。
細道の<植うる剣>の解釈はこちら

   

        滝廉太郎の当倶楽部の曲目リスト

滝廉太郎当倶楽部の作曲
曲  名 作  詞 歌  手 歌 い 出 し
お正月 東  くめ - もういくつねるとお正月お正月には凧あげて
荒城の月 土井晩翠 - 春高楼の花の宴めぐる盃かげさして千代の
箱根八里 鳥居  忱 - 箱根の山は天下の険函谷関も物ならず万丈
はとぽっぽ 東  くめ - はとぽっぽはとぽっぽぽっぽぽっぽととんで
武島羽衣 - 春のうららの隅田川上り下りの船人が櫂の