「鐘の鳴る丘」とチャリンコ

「アイスクリームの歌」と佐藤義美の矜持
 「アイスクリームの歌」(昭和35年)は歌詞中に ♪僕は王子ではないけれど、アイスクリームをめしあがる♪ があることで常に物議を醸す。曰く「自分のことに尊敬語を使うのは間違いである」、「単なる冗談だ」、「意図があったとしても童謡にそのような歌詞を使うことは子供のためにならない」などなど。このことは五年後(昭和40年)に刊行された<童話集・「王さまの子どもになってあげる」にも通じるものがあると思われ、子供の夢にも関係してくると思われるので、筆者なりに解釈してみたい。
 佐藤義美(さとうよしみ、豊後竹田の出身. 明治38年(1905年)1月20日〜 昭和43年(1968年)12月16日、詩人・童謡作家)は、学生の頃から詩作を志し、昭和3年(1928年)に童謡雑誌<赤い鳥>に下掲の「月の中」を発表し、童謡作詞家として認められるようになった。<赤い鳥>は同年に廃刊しているので、大正8年以来の<赤い鳥運動>への滑り込みであった。


 月の中  佐藤義美 (昭和3年)
 (一)           (二)            (三)
 月の中には       月の中から        菜の花
 菜の花が いっぱい   風はきいろい       菜の花
 菜の花           菜の花が         菜の花は つめたい
 菜の花           とんでくるから      月の中では

この詞を見てみると、難解な言葉は一つもなく良く分るのに、繋がりを見るとばらばらと言葉が撒かれていて統一性がないように見える。しかし、全体を見ると、子供が月をみて感じるもの、子供の心の中の混沌、を見るようにはっきりしてくるように思われる。これは<赤い鳥>の主宰者鈴木三重吉の提唱した<子供の心を反映させる真の童謡を>、の極致であるともいえる。いわば形而上学に言うアウフヘーベン。これが顕著に現われたのが、次の「ほろほろ鳥」であろう。

 ほろほろ鳥
 作詞:佐藤義美 作曲:河村光陽 制作:滝野細道 (昭和6年)

 (一)                     (二)                  (三)
 ほろほろ鳥は 雨ふらす       ほろほろ鳥は うたいます     ほろほろ鳥は まりをつく
 雨がふります              声がしてます             まりをつきます
 ほろ ほろ ほろ ほろ        ほろ ほろ ほろ ほろ      ほろ ほろ ほろ ほろ
 知らない山です かえりましょう   ほろほろ鳥は 母さんでしょう  ほろほろ鳥は 母さんでしょう
 いえいえ いつもの 道がある   いえいえ まりが つきたいの  いえいえ まりが つきたいの

                                           あれは ゆうべの
                                          お月さんでしょう
                                          いえいえ わたしの まりなのよ
   

 この詞を大人の形而下的解釈で、正確な連結を説ける人がいるだろうか?これこそ、子供の心になりきった状態になければ分らないであろうし、鈴木三重吉の提唱するように、大人が分るものでなければならない理由は何も無い、ということであろう。これでいいかどうかは、別問題。
 文部省唱歌の上から目線の教育的説明的なものと、<赤い鳥>以後の子供の目線を中心とし子供の心を表象した童謡の相違には非常に驚く。また戦後の、まどみちを、佐藤義美、阪田寛夫、小林純一などを中心とした、かがんで幼児になりきったような、一歩進んだ童謡にも驚く。佐藤義美も「月の中」から昭和6年の「ほろほろ鳥」を経て、「グッド・バイ」(昭和9年)あたりから、幼児目線の歌と変わってきて、戦後は「犬のおまわりさん」、「おすもうくまちゃん」、「バスの歌」、「よいおへんじはい」などで見られるとおりである。
 そこで「アイスクリームの歌」の ♪めしあがる♪ であるが・・・
 <歌は世に連れ世は歌に連れ>という言葉がある。<・・・世は歌に連れ>の方は、古くは時代の変わりを告げた「宮さん宮さん」、「船頭小唄」、戦後の復興に力を貸した「りんごの歌」、「みかんの花咲く丘」、ロック、ポップス、グループサウンド、フォークの発祥など、かなり限られるが、<歌は世に連れ・・・>のほうは殆どの歌が世相を反映しているものである。その中で童謡は比較的<世に連れ>ていないものが多いが、この「アイスクリームの歌」はまさに世相を反映した<世に連れ>の童謡なのだ。どこが<世に連れ>を表す箇所か?それが ♪ぼくは王子ではないけれど アイスクリームをめしあがる♪ というところなのである。
アイスクリームは明治2年に横浜で最初に作られたとされている。当時は『あいすくりん』という名称で、今の価格にして一個8,000円だったという。正に王侯貴族の食べ物で、皇室や鹿鳴館などでかろうじて食べられたのだろう。♪おとぎばなしの王子でも、昔はとても食べられない♪ものでそれが戦後まで続いたのであった。
この歌の作られた昭和35年は、一本5円のアイスキャンデー全盛で、自転車に冷凍箱を載せて、<氷>、<アイスキャンデー>と書いた幟をたてて、ベルをチリンチリンと鳴らして、田舎の隅々まで売り歩いて回っていた時代。占領時代、進駐軍の食べ物にアイスクリームというのがあって、米兵はその柔らかで、冷たく甘い氷菓子を毎日普通に食べている、というのを噂に聞いて、アメリカの国力を納得すると同時に、子供たちにとっては垂涎の的となったのであった。1950年の講和条約以来10年経ち、まだ冷凍技術が十分でなく、レストランなどでは食べられたものの、一般の店で自由に買えるのはもう少し後、そんなアイスクリーム端境期の時代だった。だからデザートにアイスクリームが出ようものなら、何となく衿を正して頂かなければいけないような気がすると同時に、少し偉くなったような気分となる。そのときの幼児の気持と、王子になったような子供らしい夢想を、佐藤義美独特の形而上的な表現をしようとしたのがこの「アイスクリームの歌」だった。
 そのような時代を一挙に表そうとしたのが、<召し上がる>という言葉なのだ。「月の中」でも「ほろほろ鳥」でも一つ一つの言葉を非常に重んじた佐藤義美が、間違えたり、冗談にこの言葉を使った筈がない。この<召し上がる>という言葉は、従って、この歌の中では最も重要な、佐藤義美渾身の選択の結果であると思われる。


      
TOP 童謡・唱歌 懐メロ 八洲秀章&抒情歌 昭和戦後の歌謡曲・演歌 Piano Classic