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この「夜のプラットホーム」は一見「高原の駅よさようなら」や「雨の夜汽車」などなどのように、戦後胸を病んで入院した青年と、サナトリウムの看護婦(今は看護師)との切ない別れ、堀辰雄の世界が想起されます。細道も何となくそう思っておりました。しかし、昭和22年、歌:二葉あき子とされているこの歌は、実は、昭和14年制作、歌:淡谷のり子で、奥野椰子夫が新橋駅で出征兵士を駅頭で歓送する光景を見、プラットホームの影に佇んでいる出征兵士の新妻とおぼしき女性を見て、その気持ちを歌ったものだったのです。二番を見てみますと、<『万歳!万歳!』と叫んで青年を見送った後、皆がゾロゾロ帰ったあとで、一人柱の影に佇んで『生きて帰ってきて!』と呟く新妻>の光景が眼に浮かびます。与謝野晶子の<君死にたまふことなかれ>を彷彿とさせるものが、昭和14年の検閲を逃れられるはずもなく、当然のことながら発禁となりました。この発禁を怒ったのが、作詞した奥野より作曲の服部良一でした。服部は独逸人に歌詞を英訳させ、その ”I'll be waiting”(待ちますわ=君いつ帰る)という歌を訳者当人に歌わせ、輸入曲としてリリースしました。歌手が三国同盟の独逸人であったのと、英語の歌詞がいかにも米英人の女々しさを表しているということで検閲を通ったのでしょう。戦後昭和22年、発禁された日本語歌詞のものをGHQに持ち込んだところ、厭戦ムードが時のGHQの方針に適うということで許可され、大ヒットとなりました。内地では発禁なのに、戦地では兵士により歌われた「ズンドコ節」(海軍小唄)みたいなが沢山あったのです。戦時中は発禁となって、その時はやむなくリライトし、戦後、発禁前のものを再リリースしたものが沢山あります。「明日はお立ちか」、「待ちましょう」、「君待てども」などはそう思って聞くと、出征している夫(恋人)を待つ女性そのものと思われるから不思議です |