昭和20年(1945年) JASRAC No.044-0076-3(惜別のうた)
惜別の歌

武州川越の高楼 Photo taken by Hosomichi

作詞:島崎藤村
作曲:藤江英輔
歌唱:(「惜別の唄」小林旭)
制作:滝野細道

(一)
遠き別れに 堪えかねて
この高楼(たかどの)に 登るかな
悲しむなかれ わが友よ
旅の衣(ころも)を ととのえよ

(三)
君がさやけき 目のいろも
君くれないの くちびるも
君がみどりの くろかみも
またいつか見ん この別れ

(二)
別れといえば 昔より
この人の世の 常なるを
流るる水を 眺むれば
夢はずかしき 涙かな

(四)
君の行くべき やまかわは
落つる涙に 見えわかず
袖のしぐれの 冬の日に
君に贈らん 花もがな

懐メロ 童謡・唱歌 八洲秀章&抒情歌

*09/12/04 「細道のMIDI倶楽部」TOPへ

この「惜別の歌」は昭和25年にレコード化されたものを基にしています。従って、小林旭の歌ったものは三番まででしたがこのMIDIは四番まであり、漢字の使用箇所や編曲も多少違います。島崎藤村の若菜集の原詩「高楼」は全部ひらがなで、嫁に行く姉に妹が別れを告げるものだったのですが、藤江英輔によって、<わが友よ>となりました。これは藤江が学徒動員で軍需工場にいた時に、召集令状(赤紙)がきて応召する学生を送別するのに酒の一杯もなく、惜別の意をこめて<わが友>と変えて朗読して見送った、というものです。とかくするうち詩にメロディーがついて「惜別の歌」となって全国に広がって行ったのですが、今では藤江の母校中央大学でも、「なぜ俺たちは卒業式に小林旭の歌を歌うんだ?」と。
島崎藤村(島崎正樹)は、信州馬籠宿の本陣の生まれで、島崎家は幕末の<水戸の天狗党事件=これが小説『夜明け前』の舞台>や<赤報隊事件=幕末の相楽総三の事件>にも関与した旧家でした。藤村の眼ははじめから信州・木曾を見ており、『夜明け前』は信州島崎家の自伝小説、長野の部落民を扱った『破戒』や、当倶楽部収載の「千曲川旅情の唄」「小諸なる古城のほとり」、『初恋』の<まだあげそめしまえがみの りんごのはなに・・・>などなど、藤村の作品は今でも信州の匂いとともにあります。この「高楼」も小諸城址を思わせます。信州人は島崎藤村を誇りに思っていました。藤村こそ信州人の代表だと思っていたからです。昭和の時代、第一次町村合併の波が押し寄せた時、藤村の馬籠宿のあった山口村は二分割され、南半分は岐阜県中津川市となり、馬籠宿は長野県木曾郡山口村として残りました。住民は敬愛する信州人島崎藤村と歴史に対する責任の方を採ったのでした。時代は変わり、人心も変わってカネとモノが支配する平成の時代。平成の大合併が札束と政府主導で進められ、馬籠も岐阜県中津川市となり、信州人島崎藤村は岐阜県出身の作家となりました。山口村民か他の信州人か、どちらが『高楼(惜別の歌)』を歌ったのでしょうか。
(地図)