新釈「五木の子守唄」

昭和の歌姫を探す(1)

時代の代表者

  <昭和の歌姫>の尊称は誰に奉げるべきか?そんなもん、美空ひばりに決まっとるじゃあないか、何を今更・・・、と。しかし、まあそう単純なものでもあるまい、と言うのが本倶楽部歌謡余話の趣旨であることは、もうお察し頂けると思う。こういうことには個人的な贔屓の思い入れもあるし、現在評価時点に近い人ほど記憶も鮮明で有利であるので、万人に賛同いただける選定をするのは困難なことは承知の上であるが、平成20年の現在から昭和時代の全体を俯瞰して見て、原点に立って検証し、たれが最も<昭和の歌姫>の名に相応しいかに迫って見ようと思う。私自身大好きな女性歌手はいたが、そういった好悪の気持ちは振り捨て、評価を基準化、データ化した、冷静な対応が必要だろう。
 もともと<歌姫>と言う言葉は、昭和
30年代まで<美貌の歌姫>、<奇跡の歌姫>、<昭和の歌姫>など、祖父がアメリカ人で、クォーターだった美貌の渡辺はま子に奉られた言葉だった。それが今や♪温暖や昭和は遠くなりにけり♪となってみるとそのことは忘却の彼方に追いやられ、一般には平成元年に国民栄誉賞を授与された美空ひばりと見るのが妥当、と思われているようで、実際にそのように呼称されている場合が多々みられる。私も現にMIDI解説でそう書いている。しかし、果たしてそれでいいのか?今回は時代性、社会的影響度、歌以外の歌手生活の波乱度、歌手歴、ヒット曲などから数字の面も絡めて、いわゆる昭和度を勘案して選定してみたい。

戦前の女性歌手

 昭和初期から昭和末期まで、ずっと歌でも芸能でも第一線をキープできた女性がいれば、その人が<昭和の歌姫>であろうが、流行り廃りの激しい流行歌・歌謡曲の世界でそういう人はいない。美空ひばりでも昭和23年から昭和64年までの40年間である。これも凄いことだが・・・普通一人の歌手の全盛期は長くても10年。中島みゆきなどのように30年以上にわたってオリコン1位を獲得するなどは誠に稀有な例であり、何しろ流行の世界を時代性を持って流行に乗って行くのは至難の業で、昭和の歌でも大きな時代変革のあった太平洋戦争を境にしてガラリと別れる。戦争の時代を中心に前後で活躍した女性歌手といえば、佐藤千夜子、渡辺はま子、ミス・コロムビア (松原操)、高峰三枝子、淡谷のり子、などが考えられる。他にも二葉あき子、松島詩子、関種子、小林千代子、四家文子、菊地章子、小夜福子、由利あけみ、市丸など一世を風靡した歌手もいたが、<昭和の歌姫>を選ぶにあたっては最初の5人にも敵わない。5人の中でも、淡谷のり子は、<ブルースの女王>ではあるかもしれないが、晩年のイメージから<歌姫>というには程遠いし、高峰三枝子は「純情二重奏」(昭和14)や「湖畔の宿」(昭和15)などの大ヒットはあるものの、歌手歴は短く、自身も言っているように本質は<女優>である。佐藤千夜子は、「波浮の港」(昭和3)で日本初のレコード歌手といわれたが、この時すでに31歳、その後2年のうちに、「東京行進曲」(昭和4)、「愛して頂戴」(昭和4)、「この太陽」(昭和5)、「影を慕いて」(昭和6)と続けざまに大ヒットを飛ばし、<歌謡曲>と言うジャンルを確立した歌手とも言われた先達であったが、活躍期間は昭和初期の4〜5年と短く、昭和の代表とするわけにもいかない。してみると、この時期の<昭和の歌姫>候補はミス・コロムビアこと松原操と<元祖>昭和の歌姫渡辺はま子ということになろう。
 自身の全盛期にスッパリと芸能界から引退し、その後誰に勧められても決して芸能界復帰しないため、記憶と歴史に残った3人がいる。女優の原節子(2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・日本編」女優部門の第1)、歌手のミス・コロムビア(松原操)と山口百恵である。
 ミス・コロムビアこと松原操
【まつばら みさお、本名:松原操、明治44(1911)生〜昭和59(1984)没】は、昭和8年コロムビアレコードからミス・コロムビアと言う覆面歌手としてデビューした。これは小林千代子が<金色仮面>として覆面で売り出したところヒット歌手になったのを倣ったものだが、その年早くも「十九の春」(昭和8)が大ヒット、続いて「並木の雨」(昭和14年)「秋の銀座」が大ヒット。その後病気で1年療養するものの、<ねェ小唄>の「ふんなのないわ」が意に反して大ヒットしてカムバックした。デビュー当初から声楽曲や軍歌は<松原操>名で歌っていたが、昭和13年の「旅の夜風」がミス・コロムビアとしての最大のヒットとなった。その時共演したデビューしたての白皙の美青年が霧島昇で、その後も「愛染夜曲」(昭和14)、「愛染草紙」(昭和14)、「一杯のコーヒーから」(昭和14)と立て続けに共唱し、二人は割りない中となった。皮肉にも二人が<愛染コンビ>でヒットを続けるうちにイケメン霧島昇は大スターとなっていて、高峰三枝子や奥山彩子といった美人スターと浮名を流すようになったので、松原操は霧島昇に正式な結婚を迫り、ここに二大スターの結婚が実現したのである。内務省の英語名禁止令もあったが、結婚して<ミス名>を捨てても人気は衰えることなくヒットを続けた。昭和23(1948)の「三百六十五夜」(美空ひばりもリリース)を最後に松原操も捨て、坂本操となって完全引退し、カムバックすることはなかった。
松原操が「三百六十五夜」を最後に引退せず、もう10年ほどヒットを飛ばし続けていたら、あるいはその呼称に適うような歌手になっていたかも知れない。これは後述する三浦百恵となって完全引退した山口百恵にも通じることである。@歌手生活:13年、A第一線で活躍:13年、B最初のヒット曲から最後のヒット曲までの黄金期:13年、C波瀾万丈度:病気療養、二大スターの結婚に至る葛藤、完全引退の決断などがあったが、波瀾度:小波瀾。
  渡辺はま子
【わたなべはまこ、本名:加藤浜子、明治
43(1910)生〜平成11(1999)没、横浜市出身】は終生横浜に暮らした純粋の浜っ子であった。武蔵野音楽学校を出てビクターに入り、昭和10年「ひとり静」が最初のヒットとなった。以来「忘れちゃいやヨ」(これは曲中の<ねエ>が問題となり内務省から『あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱。エロを満喫させる』とステージでの上演禁止、レコード発禁の統制令が下り、内容と曲名を「月が鏡であったなら」と変えて出版、大ヒットする)、それでも似たような歌の「とんがらかっちゃ駄目よ」を大ヒットさせるが、内務省に睨まれ、1年の謹慎をする。その後は軍歌や国民歌謡の「愛国の花」「支那の夜」「何日君再来」「蘇州夜曲」などを大ヒットさせ、李香蘭らと戦地慰問を積極的に行ったが、終戦時慰問途中に天津で捕虜となり、1年の虜囚生活の後帰国する。渡辺はま子は慰問団で戦意を鼓舞した活動を大いに反省し横浜で花屋などを営んでいたが、ハンセン病問題など罪滅ぼしに社会貢献するためカムバックを決意し、同じく軍歌作曲の雄で自身の戦意鼓舞を反省していた古関裕而と「雨のオランダ坂」を出し「東京の夜」ともども大ヒットさせ、完全復帰する。続いて終生の代表曲となった「桑港のチャイナタウン」をリリースする。そして彼女の人生のハイライトである「ああモンテンルパの夜は更けて」を大ヒットさせフィリピンのモンテンルパ刑務所から百余名のBC級戦犯を救出する原動力となったのだった(本倶楽部歌謡余話@を参照)。その後も社会貢献を続け、昭和一杯歌手生活を全うし、まさに昭和を駆け抜けた波瀾万丈の光り輝いた生涯だった。@歌手生活:50年、A第一線で活躍:30年、B最初のヒット曲から最後のヒット曲までの黄金期:17年、C波瀾万丈度:内務省より「忘れちゃいやョ」の<ねえ>がエロをそそるとしてレコード発禁となる。1年間歌手として歌唱謹慎、路線を変え愛国歌手としてハードな戦地慰問、終戦時中国天津で一年間の虜囚生活、帰国謹慎後華やかな芸能生活にカムバック、モンテンルパのBC級戦犯救出に多方面で奔走、ハンセン病患者の支援に立ち上がる、と波瀾度:抜群。戦争前後の昭和を代表する女性歌手としては、やはり渡辺はま子が一番であろう。
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BGM:雨のオランダ坂

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