新釈「五木の子守唄」

昭和の歌姫を探す(3)

歌謡曲の女王


 美空ひばり【みそら ひばり、本名:加藤和枝、昭和12年(1937年)生〜平成元年(1988)没】は、人気絶頂の中で亡くなったが、その人気に反比例するように私生活の方では不幸に付きまとわれていた。中央デビュー前の9歳の時、母喜美枝に付き添われて四国を歌巡業をしていた折、高知県大豊町大杉でバスが吉野川支流穴内川に転落し、直接墜落したら到底助からないところ、途中の巨木にバスが引っ掛かって、九死に一生を得た。筆者も行って見たことがあるが、墜落の記念碑もあり、凄い所でよくも助かったという印象だった。そこでは大腿骨と骨盤の付根が損傷する大怪我を負い、意識不明の重体となった。その結果大腿骨骨頭が壊死することとなって、これが一生美空ひばりを苦しめた。直接の死因ではないものの、これも主因であったらしい。次にNHKのど自慢の<鐘なし事件>に遭遇。ひばりが歌い終えても鐘が鳴らないのである。一つも二つも三つも鳴らない。会場はシーンと静まり返っている。9歳の子供には耐えられない。理由は<歌は抜群にうまいが、大人の真似で子どもらしさがない>と言うもの。この、<大人の真似をする小生意気な女の子>のイメージは昭和24年の「悲しき口笛」の大ヒットで、人々を<ひばりファン>と<アンチひばり派>に分け、これがかなり晩年まで付きまとった。「悲しい酒」や「柔」以後のひばりファンに若い人が結構多かったのは、世代変わりしてそういう感覚を知らないから、と言うのも一つの理由だろう。しかし、14歳のひばりは昭和26年の三部作「私は街の子」「越後獅子の唄」「あの丘越えて」で歌謡界に不動の位置を占めることとなり、以後、映画にも数多く出演、歌の方も「リンゴ追分」「津軽のふるさと」「お祭りマンボ」など、すでに昭和20年代で絶頂期を築きあげていた。30年代に入ると島倉千代子、コロムビア・ローズ、三橋美智也、春日八郎、といった新顔が怒涛のようなヒットを飛ばし、銀幕では活躍していたものの、多少影が薄くなったのは否めなかった。折も折、昭和321月、浅草国際劇場でファンの少女に顔に塩酸を掛けられる。再起不能かと騒がれたが、奇跡的に顔に傷も残らず、3週間後に歌舞伎座公演でカムバック。その頃の地方公演は地方の暴力団が差配しているものが多く、暴力団とひばりの関係は後々まで尾を引き、NHK紅白歌合戦辞退、弟の逮捕と繋がる。しかしその間、「港町十三番地」「車屋さん」などのヒットを飛ばし、昭和35年「哀愁波止場」でレコ大歌唱賞を受賞。昭和37年、俳優の小林旭と結婚、2年足らずで離婚となる。この間仕事をセーブしていたこともあって大ヒットはなく、美空ひばりももう・・・と思われていた頃、昭和40年、5年ぶりに「柔」が180万枚の大ヒット、レコード大賞も受賞、翌41年には「悲しい酒」、43年ブルコメと共演の「真っ赤な太陽」と、生涯の代表作となるような歌が続々大ヒットして、完全復活を遂げる。この年ひばりは丁度30歳になっていた。以後、活動の場を徐々に舞台の方に移し、興行権を通じて暴力団との繋がりも深くなって行った。昭和45年以降見るべきヒットにも恵まれず、社会の風当たりのみが、ひばりに辛くあたった。まず弟のかとう哲也(芸名小野透で映画でも何度も主役を演じたスターだったが、所詮ひばりの弟ゆえの七光出演だった。引退して組員となっていた。)が暴力事件などで何度も逮捕され、舞台前座で哲也を使っていたひばりも糾弾を受け、弟を庇った末に、NHK紅白歌合戦出場辞退に繋がり、人気にも陰りが見えた。不遇の時代(昭和45年〜55年)を救ったのが昭和55年「おまえに惚れた」であり、小椋佳の「愛燦燦」であったが、不幸は去らず、母喜美枝、二人の弟かとう哲也、香山武彦(時代劇などに出演していた)、親友だった江利チエミなどが相次いで亡くなり、酒に溺れる。これで体調を崩し、昭和624月、慢性肝炎と両大腿骨骨頭壊死により緊急入院長期療養となったが8月に退院するや「みだれ髪」をレコーディング、これが大ヒットとなり、昭和634月東京ドームで「不死鳥コンサート」開催して完全復活をアピ−ル。しかし病魔は去らず、美空ひばりの過去の人生そのものを歌ったような「川の流れのように」をレコーディングすると間もなく入院、平成元年624日死去した。「川の流れのように」は死後もヒットを続け150万枚を超えるメガヒットとなり、人気を評価されて国民栄誉賞が授与された。@昭和の歌手生活:40年、A第一線で活躍:40年、B最初のヒット曲から最後のヒット曲までの黄金期:40年、C波瀾度:抜群。D吹き込み曲:1500曲、という次第で、戦後の昭和を代表する女性歌手はだれかということになると、島倉千代子か美空ひばりのどちらかであろう。
 二人を数値で比較してみると、@昭和の歌手生活:(島)34年、(美)40年、A一線で活躍:(島)40年、(美)40年、B黄金期:(島)32年、(美)40年、波瀾万丈度:(島)大、(美)抜群、D吹込み曲:(島)2000曲、(美)1500曲、昭和の活躍度はこの偏ったデータで見る限り、吹込み曲以外はすべてにおいて美空ひばりが島倉千代子を凌駕している。(ただし、ヒット曲数――何枚のレコード売り上げを基準にするか、総売上レコード枚数は比較できていない)ここは、お千代さんも尊敬してやまなかった美空ひばりに、戦後の昭和を代表する座を譲っていただくのが妥当なところだろう。
 かくして、昭和を代表する<昭和の歌姫>は、大方の予想通り、昭和前半の30年にそう呼ばれた元祖渡辺はま子と、昭和後半の30年にそう呼ばれた本家美空ひばりということになる。両者とも同じ加藤姓で横浜生まれの浜っ子育ちという奇しき縁(えにし)であるが、両方ともそう呼称するわけにもいかない。

時代の代表たる<昭和の歌姫>

 日本の歴史の中で、<昭和を象徴するものは何か?>と問うたなら、戦争を措いて他にあるまい。戦争は昭和が終わるまでずっと影を落としていたし、平成の世になって20年も経過しようとしているのに、諸外国との関係において、時々亡霊のように頭をもたげて来る始末だ。<最早戦後ではない>と言った人がいたが、そういうことを言うことこそ戦争の影響から脱し切れていない何よりの証拠である。その昭和を象徴する時代に生き、その時代に活躍したものに<昭和の・・・>の尊称を与えるのは、理あることだ。Cの波瀾万丈度を入れたのはそうした理由からである。渡辺はま子は最初は<ねエ小唄>で時の内務省に睨まれ、一転して日中戦争、太平洋戦争の間戦意高揚のために慰問に奔走(これは戦時の日本人にとってごく普通の行動だ)、終戦時には捕虜となって一年間の収容所生活、戦後の反省と謹慎、新しいジャンルの歌謡曲で復帰、「ああモンテンルパの夜は更けて」で14名の死刑囚を含む百余名のBC級戦犯の救出と、時代に生き、時代に歌った波瀾の17年だった。しかも、歌手生活も昭和を越えて平成11年に死去するまで続き、歌に生き歌に死んだ生涯であった。一方、美空ひばりは終戦時8歳で、戦争に歌で関与できる年齢ではなかった。昭和を象徴するものに関わることができなかった。こう分析すると、宿命とは云え<昭和>の称号には一歩譲って貰わざるをえないだろう。それと美空ひばりの<波瀾>は、昭和の時代によるものというよりは、自己の事象に関するものがほとんどである。という次第で、<昭和の歌姫>と言ったらそれだけで<渡辺はま子>を意味することとしたい、と言うのがこの稿の筆者の結論である。
 実は、この稿の想を起こした時は全く反対の結論だったが、書き進むうちに、待てよ、となった。矢張り激動の昭和史を身をもって体験しそれを自分の歌に反映させた者が、コンペティターに比してあまり遜色がないならば、そちらに尊称を与うるのに適う、との結論に至った。<歌謡界の歌姫>、<歌謡曲の女王>などはまさしく美空ひばりのものであるが、<昭和の歌姫>の称号まで、渡辺はま子から取り上げることはないだろう。

【昭和の歌姫=渡辺はま子】としたい。

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