新釈「五木の子守唄」

昭和の歌姫を探す(2)

戦後に活躍した女性歌手


 戦後になると、当然の美空ひばり、島倉千代子、都はるみ、石川さゆり、山口百恵あたりが候補であろうか。このほかにも、初代コロムビア・ローズ、青江三奈、西田佐知子、ザ・ピーナッツ、三人娘、八代亜紀、花の中三トリオ、小川知子、黛ジュン、小林幸子、和田アキ子、小柳ルミ子など一時代を劃す活躍をした女性歌手は沢山いたが、芸能生活は長くとも、いずれも上記5名を超え昭和を代表させるほどの歌手とは言えない。それに記憶に新しい歌手はそれだけ有利なので、こころしなければいけない。上記5名の中でも山口百恵は鮮烈だった。
 山口百恵【やまぐち ももえ、本名:三浦百恵、昭和34(1959)生まれ〜現在、昭和55(1980)芸能界引退、神奈川県横須賀市出身】は、平成20年の現在に至るも記憶に残る歌手と言う点で、昭和を代表する歌手には間違いない。前述のように、松原操同様絶頂期にキッパリと引退してしまって再び芸能界に復帰しないと言うのは一際印象に残る。広隆寺と言うよりは中宮寺の弥勒菩薩様のような顔をして「ひと夏の経験」(昭和49年)を歌い、若者はもちろんのことたちまちおじさん族のハートまで掴んでしまった。続いて「横須賀ストーリー」(昭和51)、「プレイバックPart2」(昭和52年)、「いい日旅立ち」(昭和53年)「秋桜」(昭和52年)、その人気は<昭和の歌姫>と呼ぶに適うものだったが、いかんせん活躍の期間が19731980年の7年間と短く、以後完全引退してしまったことで、存在感は絶大だったものの、<昭和>の尊称を献上するには残念ながら躊躇せざるを得ない。
 石川さゆり【いしかわ さゆり、本名:石川絹代、昭和33年生〜現在、熊本県出身】も山口百恵など<花の中三トリオ>と同時期のデビューだったが、その陰に隠れなかなかヒット曲に恵まれなかったが、「津軽海峡・冬景色」(昭和52年)、「能登半島」(昭和52年)、が大ヒットし一躍演歌歌手のトップに躍り出た。以後も「波止場しぐれ」(昭和60年)、「天城越え」(昭和61年)、「夫婦善哉」(昭和62年)、のビッグヒットを昭和の内にリリースし、とくに「天城越え」を歌っている時は強烈だった。筆者も後押ししたい歌手だが、本当に昭和末期の活動で、平成年代に入っても<風の盆恋歌>、<港唄>、<ホテル港や>などのヒットを飛ばしていて<昭和の歌姫>としては中途半端であるのに加え、美空ひばりや島倉千代子を凌駕できる存在とは思えない。
 都はるみ【みやこ はるみ、本名:北村晴美、昭和23(1948)生〜現在】は、一瞬ではあるが<美空ひばりを超えた>といわれた時期があった。NHKのアナウンサーが、そのように考えていたら、思わず都はるみを<美空ひばりさん!>と呼んでしまった事件があった。しかし、美空ひばりが<歌こそ我が命>と言い続けていたのに対し、都はるみの方は、<普通のおばさんになりたい>何ぞと言って、昭和59(1984)に引退してしまい、平成2(1990)に歌手復帰したものの、ヒット曲に恵まれなかったという経歴を持つ。昭和39年(1964年)「アンコ椿は恋の花」で世に出て、「涙の連絡船」「好きになった人」「北の宿から」「大阪しぐれ」「ふたりの大阪」「浪花恋しぐれ」などミリオンセラーを含む大ヒットを飛ばした。@昭和の歌手生活:24年(全43年)、A第一線で活躍:22年、B最初のヒット曲から最後のヒット曲までの黄金期:20年、波瀾万丈度:wikipedia などにも特に波瀾の人生は記録されていないが、人気を保つ苦しさから「普通のおばさんに戻りたい」という発言となったと思われ、人気歌手にはそうした人生の波乱はつきものなのだろう。波瀾万丈度:低。というわけで、次に語る島倉千代子の昭和度にも及ばないのではないだろうか。
 島倉千代子【しまくら ちよこ、本名:同じ、昭和13(1938)生〜現在、東京都出身】は、美空ひばりより1歳年下であったが、音楽シーンへのデビューは美空ひばりが11歳(昭和24年)だったのに対し島倉千代子は16歳(昭和30年)と6年遅れだった。しかし、デビュー曲「この世の花」は半年間で200万枚を売り上げる大ヒットで、昭和30年〜34年までの4年間で127曲をリリースするという驚異的ペースであった。この間記憶に残るヒット曲も「りんどう峠」(昭和30年)、「東京の人よさようなら」(昭和31年)、「逢いたいなァあの人に」(昭和32)、「東京だョおっかさん」(昭和32)、「からたち日記」(昭和33)、「思い出さん今晩は」(昭和33)、と続き、一方、美空ひばりは昭和32年の<塩酸事件>に遇い、映画は別としてヒットを続けてきた歌も昭和30年〜34年の間は「港町十三番地」くらいの一服状態で、島倉千代子の歌の勢いはこの時点では美空ひばりを完全に凌駕していた。美空ひばりにはサトウ・ハチローのように根強い<アンチひばり派>も多く、それらの人々が泣き節の島倉千代子に流れたともいえる。その後、「哀愁のからまつ林」(昭和34年)、「恋しているんだもん」(昭和36年)、「襟裳岬」(同年)、「星空に両手を」(昭和38年)、「ほんきかしら」(昭和41年)、「愛のさざなみ」(昭和43年)、「竜飛岬」(昭和46年)、「鳳仙花」(昭和56年)「人生いろいろ」(昭和63年)と「愛のさざなみ」以後は間遠になったものの、昭和末期まで大ヒットをとばしている。@昭和の歌手生活:34年(現在まで全53年)、A第一線で活躍:40年、B最初のヒット曲から最後のヒット曲までの黄金期:32年、C波瀾度:未熟児で生まれ、戦争で長野に疎開中右腕切断に近いような怪我をする。腕が動かないので大きな所作は不可能で、動きの少ない演歌歌手として<コロムビア全国歌謡コンクール>で優勝、「この世の花」で大ヒットデビュ−。舞台過多からか声が出なくなり失踪、ファンのテープを目に受け失明寸前となる。阪神タイガースの藤本勝巳と結婚する前に3度の中絶、そして3年で離婚、友人に実印貸し16億円の負債を抱え、2年後またも騙されて2億4千万円の負債。姉敏子の自殺、乳癌の手術、友人にまたまた騙され多額の借金を背負う繰り返し、で波乱度:大。D吹き込み曲:2000曲。
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