常布の滝紀行                                               
 温帯追悼記                            1    

[思い立つ]
 温帯おやぢこと山口昭夫氏が亡くなった。2001年5月1日のことである。掲示
板で知ったときは暫く呆然としてしまい、滝関係には手を触れたくなくなってしまっ
た。私より5歳も年下の人の死は非常にこたえた。夜、暗闇の中で「温帯おやぢ、
何で死んじまったんだよう」などと考えていたら、突然涙が止まらなくなって、自分
でもビックリした。あれこれ考える中で一番思い出されたのが「細道どん、常布の滝
はいいよ」という、おやぢの言葉だった。温帯おやぢがどうしても常布の滝へ行きた
かった理由、草津の同姓同名の山口昭夫氏にルート照会をした時の話などが思い
出されて、生前、「温帯どん、常布の滝へ行ってきたよ」と報告出来なかったのが、
悔やまれてならなくなった。
 実は私も常布の滝へのルート調査に行ったことがある。1998年11月3日のこと
で、偶然その5日後に温帯おやぢも加わった彩志会の常布の滝遠征が行われてい
たことを後で知った。そのときは天狗山スキー場の駐車場脇を抜けて、谷沢川を渡
って大きな堰堤まで車で行けた。車を降りて堰堤脇を登り、大小の岩が転がる古い
舗装道路を辿ってみたが、その道はなにやら真っ直ぐ音楽の森の方へ戻っていくよ
うな気がしたので、引き返してしまった。地図で見た限りでは常布の滝に至る道は
なさそうだったし、そのときは嫗仙の滝のほうに行きたかったのでアッサリと諦めた。
それに常布の滝が谷沢川の上流にあると思い込んでいたので、尾根を越えて、反
対側の大沢川に出るなどとは思っても見なかったのであった。いろいろな点で滝を
ナメていた時期でもある。
 直後に会社のPCで常布の滝についてのサイトを検索していたら、大西慎二と言う
人の「すくらっぷ・ブック」というHPにあった。そこには観瀑台から真下の谷底までロ
ープで降りて川を遡行しなければならない、とあり、あまつさえ、川から観瀑台に登
る地点が分からなくなって、夕闇迫る沢を彷徨ったなどといった恐ろしげなことが書
いてある。永瀬嘉平氏の「滝ゆけば」も同じだ。こりゃ駄目だ、と、私の興味は東北
の滝、甲信静の方に移って行った。
 1999年春、東北に遠征しようと思って資料集めをしている途中、山口昭夫という
人の「滝の情報館」なる膨大な資料にあい、大変なことをしている人がいるもんだ、
と感嘆するしかなかった。膨大といえば、大西慎二という人のサイトも他に抜きん出
ていた。当時私は自分のHPには無縁だったが、システム情報に関係していたので
インターネットのウェブサイトは大いに参考にさせて貰っていた。滝は二人で勝手に
好きなように行っていたので、サイトは利用させて頂いているだけで、掲示板から
情報を得る積りはなかった。
 ある時、澤枕瀑氏の「七滝倶楽部」というサイトを見ていたら[彩志会公式掲示板]
というのがあり、滝とは関係のない話しも活発で、中でも<温帯>になったり<寒
帯>になったり<熱帯>であったりする、声の大きそうな、頑固そうな、面白そうな
オッサンがいて、それが「滝の情報館」で非常にお世話になっていた山口昭夫氏
と判明した。暫くはストーカーまがいの覗き込みをしていたが、その頃には私の訪
問滝も300本近くなり、フィルムとプリント、紀行録などの整理が大変になって、こ
こはサイトを開設しサイトを整理のベースとすることに決め、「滝の細道」という何と
も安易でフザケたサイトを開設した。HNも滝野細道という安易極まりない名前。
 実生活の方では非常に厳しい状態にあったので、インターネットでもあるまいと
いうのと、ネットに逃避したいという相克があった。そんな時に、例の「CM撮影協力
是非論」が勃発し、日頃自分の考えていたことと温帯おやぢの主張するところが、
波長が合うような気がしたので、発言に責任を持てるように自分の掲示板を用意し
て飛び込んでいったのだった。
 こうして、縁あって彩志会に参加することとなり、常布の滝彩志会遠征報告を見る
につけ常布の滝への想いは復活していたのではあった。

 2001年5月20日。朝起きて、突然常布の滝温帯追悼遠征を行うと決めた。
 何の仕度もなく突然だったので連れ合いはなかなか信用しなかった。しかし遠征
報告などをプリントアウトしている私の姿を見て、「この男、本気だな」と悟ったらしく
観念したようだった。私を独りで行かせるのは念頭には無いようであった。