湖畔の宿を探せ!!

湖畔の宿を探せ!!

 BGM
 (一)山の淋しい湖に ひとり来たのも悲しい心

   胸のいたみに耐えかねて きのうの夢と焚きすてる
   古い手紙の薄けむり


 【台詞】あゝ あの山の姿も湖水の水も
     静かに静かに黄昏れて行く
     この静けさ この寂しさを抱きしめて

     私はひとり旅を行く
     誰も恨まず みな昨日の夢と諦めて
     幼児
(おさなご)のような清らかな心を持ちたい
     そして そして
     静かにこの美しい自然を眺めていると

     
ただほろほろと涙がこぼれてくる

 (二)水にたそがれせまる頃 岸の林を静かに行けば
   雲は流れてむらさきの 薄きすみれにほろほろと
   いつか涙の陽がおちる

 (三)ランプ引き寄せ故郷へ 書いてまた消す湖畔の便り
   旅の心のつれづれに ひとり占うトランプの
   青い女王(クイーン)の 淋しさよ


   
     
榛名湖「湖畔の宿」

 例えば「ブルーシャトー」の替え歌、♪森トンカツ、泉ニンニク、かコンニャク、まれテンプラ・・・♪、とか「冬景色」の、♪ササゲ、キュウリ、ドテカボチャ、畝に白しシロダイコン・・・♪、とか「」の、♪松原父チャン、消ゆる母チャン、父チャンと母チャンと喧嘩した、父チャン得意の空手チョップ、母チャン得意の背負い投げ、見よこの喧嘩・・・♪、とか「一月一日」の、♪年の初めに嫁もろて、終わり名古屋の大地震、松竹でんぐり返して大騒ぎ、芋を喰うこそ屁がでるよ♪、など、替え歌も全国的に流行った歌は、元歌がいかに流行した歌だったかが伺える。この「湖畔の宿」も、♪昨日生まれた豚の子は、蜂に刺されて名誉の戦死、豚の遺骨はいつ帰る、○月○日の朝かえる、豚の母さん悲しかろ♪、と、戦時中にしては誠に不埒な替え歌となって密かに流行り、戦後も残った。元歌は昭和15年発売ということでこの陰鬱で退廃的な歌は、日中戦争(支那事変)の戦局厳しき折から望ましくないと、発禁となりそうになったが、いち早く従軍兵士の間でヒットしてしまい、発禁を免れたという。軍事慰問団が大陸を旅すると決まってこの歌のリクエストがあり、この種の唄としては戦時中の大ヒットとなった。
 歌が流行ったり有名であったことを表わすものに<歌碑>がある。<歌碑>は、建立された地出身の作詞家、作曲家、歌手またはそれらの縁の地にあることが多い。まれに歌詞に詠われた場所に建てられるが、場所・地名が特定されている場合は何の問題もない。「みだれ髪」の歌碑は、作詞者の星野哲郎・作曲者の船村徹・歌手の美空ひばりのいずれにも関係なく、歌詞にある<塩屋の岬>に建立されている。しかし、この「湖畔の宿」の<湖>や「わたしの城下町」の<城>、「瀬戸の花嫁」の<あなたの島>など超有名曲の縁あるところはどこか?湖を抱える町、城下町、瀬戸内海の島々は自分のところではないかと、気が揉めるところだ。
「私の城下町」の場合、作詞者が言明すればそこが<ゆかりの城下町>となって歌碑も建てられるが、この歌の作詞者安井かずみはその地を特定することなく亡くなってしまった。「わたしの城下町」は歌碑ができてもいいくらいに、有名かつ名曲であると思う。地方の小市町村出身の作詞者の有名な歌であれば、何が何でも歌碑くらいは建立してしまうのだろうが、安井かずみ=京都市、小柳留美子
(本名)福岡市という大都市では生誕地以外には、それも覚束ないものがある。平尾昌晃は別として、作詞者の言明が出て来ないのでは、あとは歌手しかないわけだが、<わたしの=小柳ルミ子の、城下町=筑前福岡城下町>として、小柳ルミ子が<わたしはこの歌を歌うときはいつも、大濠公園を散策しながら福岡城址を見上げているのをイメージして歌いました>とかなんとか言ってくれれば公園に歌碑でも建つかも知れないが・・・ 安井かずみは、この歌のイメージ部分として重要な<格子戸を潜り抜け・・・>というのは京都の家並みをイメージした、と言っていたそうである。
 そこで「湖畔の宿」であるが、これについては戦後間もなくからいろいろ取り沙汰されたが、作詞者の佐藤惣之助が昭和
17年になくなっており、作曲の服部良一も詳しいことを聞いていなかったので、長い間<湖>がどこの湖か特定できなかった。<山の淋しい湖に>が大きなヒントであるが、昭和15年代に<宿のあった湖>も加わる。この中で一時、静岡県の浜名湖がそれだ、という話があったというから面白い。歌のイメージとは全く違うが、何か根拠となりそうなものを見つけたのだろう。それから諏訪湖。<山の>は良いが<淋しい>はどうか。今も昔も温泉宿が林立している。山梨県の富士五湖の一山中湖の説は。富士五湖の場合山中湖でも河口湖、精進湖、西湖、本栖湖でも何でも、全部<山の、淋しい、宿のある湖>なので返って特定困難。長野県の白樺湖、松原湖、丸池、木崎湖、野尻湖などのイメージぴったりの湖が山中にたくさんあるが、当時宿があったかどうかはっきりしていないものが多いし、いかんせん遠すぎる。群馬の赤城山と榛名山の山の上にある二つのカルデラ湖はイメージ的には合格。しかし、今でこそ結構な道が何条も走っているが、当時の傷心の令嬢にとっていかにも不便なところにある。というわけで、様々な思惑の中で高峰三枝子は、自分のイメージにぴったりした箱根の芦ノ湖を脳裏に描きながら「湖畔の宿」を歌っていたという。平成元年、彼女が古希のリサイタルを開いたとき、「わたしはこの歌を歌うとき、いつも芦ノ湖をイメージしながら歌っていました」といったものだから、前述の「わたしの城下町」で例を引いたように、芦ノ湖を湖畔の宿の湖としようとする機運が盛り上がった。
 その2年後の平成3年、佐藤惣之助が榛名湖畔の湖畔亭の仲居に送った手紙に<「湖畔の宿」の湖は榛名湖、主人公は架空の夢によるもの>などとと記述したものが発見され、手紙は佐藤惣之助のものに間違いないことから、湖畔の宿のモデル探しは終ったのである。

   
 
   宍道湖畔の宿 Hosomichi(C)           榛名湖畔の「湖畔の宿碑」 Hosomichi(C)


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