昭和28年(1953年)     JASRAC No.080-0037-9
街のサンドイッチマン

作詞:宮川哲夫(C)(曲目リスト)
作曲:吉田  正(C)
歌唱:鶴田浩二
編曲&MIDI制作:滝野細道


 
(一)
ロイド眼鏡に 燕尾服
泣いたら燕が 笑うだろ
涙出た時ゃ 空を見る
サンドイッチマン サンドイッチマン
俺らは街の お道化者(おどけもの)
(とぼ)け笑顔で 今日も行く

 (三)
 あかるい舗道に 肩を振り
 笑ってゆこうよ 影法師
 夢をなくすりゃ それまでよ
 サンドイッチマン サンドイッチマン
 俺らは街の お道化者
 胸にそよ風 抱いてゆく
 
(二)
嘆きは誰でも 知っている
この世は悲哀(ひあい)の 海だもの
泣いちゃいけない 男だよ
サンドイッチマン サンドイッチマン
俺らは街の お道化者
今日もプラカード 抱いてゆく 
 八洲秀章&抒情歌 童謡・唱歌 懐メロ
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*2009/MAY/26           Photo & Silhouette by Hosomichi
街のサンドイッチマンやチンドン屋は、昭和30年代、<三丁目の夕陽>の時代には日本全国津々浦々何処でも見掛けられました。特にパチンコ屋を始め、店の開店には欠かせないもので、サンドイッチマンを先頭に三河万歳のような姿をした音楽隊が続いてプーチャカ、プーチャカと演奏しながら街を練り歩いたものですが、広告手段の発達とともに、最近はとんと見られなくなりました。最近は渋谷の道玄坂とか、池袋界隈で復活しているようですが、どうも無届は違法行為になるのでしょうか、ドッと並んだり、サッと居なくなったりしています。因みにチンドン屋の楽器は、鐘と太鼓のついたものと、アコーディオン、クラリネットが多かったようです。
鶴田浩二は、戦後直ぐから昭和50年代まで、映画界のトップスターであり続けましたが、彼の背後には常に戦争の影が付きまとっていました。言動も極右だと言われたり、特攻隊くずれ(自身は否定していませんでしたが、本当は海軍航空隊整備科予備仕官でした)と言われたりしましたが、本質は戦争絶対反対の思想だったとも言われています。映画も歌も軍物、ヤクザ物が多かったのは当然ですが、歌では多くの軍歌を歌い、同時にこの「街のサンドイッチマン」、「傷だらけの人生」、「赤と黒のブルース」、「好きだった」などの虚無的な哀調をおびた歌も多く歌っています。声質もよく歌手としても優れていましたが、若くして薬害により難聴となり、手を耳に当てて歌う姿が印象的でした。
吉田正の作曲となった「異国の丘」を歌ったあたりから、吉田正を尊敬し、鶴田の歌の殆どが吉田正の作曲です。
この「街のサンドイッチマン」は宮川哲夫(1922年2月7日〜1974年9月30日、東京都伊豆大島出身)の最初に手がけた最初のヒット曲です。教師をした後、ビクター専属の作詞家となり、都会風の哀愁を帯びた曲をリリースしました。下掲の倶楽部内の曲以外にも「ガード下の靴みがき」「夜霧の第二国道」「羽田発7時50分」「東京ドドンパ娘」「雨の中の二人」などのヒット曲があります。

宮川哲夫の当倶楽部内の作詞曲目リスト

宮川哲夫当倶楽部の作詞曲
曲  名 作  曲 歌  手 歌 い 出 し
赤と黒のブルース 吉田  正 鶴田浩二 夢をなくした奈落の底で何をあえぐか影法師
美しい十代 吉田  正 三田  明 白い野ばらを捧げる僕に君の瞳があかるく笑う
湖愁 渡久地政信 松島あきら 悲しい恋のなきがらはそっと流そう啼かないで
好きだった 吉田 正 鶴田浩二 好きだった好きだった嘘じゃなかった好きだった
街のサンドイッチマン 吉田 正 鶴田浩二 ロイド眼鏡に燕尾服泣いたら燕が笑うだろ涙出
霧氷 利根一郎 橋  幸夫 霧氷霧氷思い出はかえらない遥かな遥かな冬
夜霧の第二国道  吉田 正  F・永井  つらい恋ならネオンの海へ捨てて来たのに忘れ