「鐘の鳴る丘」とチャリンコ

鐘の鳴る丘とチャリンコ

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鐘の鳴る丘とチャリンコ

 <チャリンコ>という語があります。もう三十年以上前、筆者の愚息が小学生の頃、「ボク、学校で初めてチャリンコしてきちゃった」、父は「な、何ッ、チャリンコしただと?ヌケヌケと!親の顔に泥を塗って!」、と激怒して、頭を抱える。息子は唖然として「えっ、どうしたの?吉村君のチャリンコでコケちゃったけど、壊さなかったよ」、「何?コケた?逃げる時に怪我したのか?」、と話は全然噛み合わない。勿論父の<チャリンコ>は戦災孤児などが生きるために犯した<少年スリ、カッパライ>の蔑称、息子の<チャリンコ>は自転車の別称なのはご案内の通り。自転車の<チャリンコ>は一九七〇年頃突然あらわれ、瞬くうちに<チャリ>となって<チャリンコ>は自転車のことになりましたが、『広辞苑』では第五版で初めて収載されました。それでも二番目の意味に留まり、一番目の意味はいまだに父の<チャリンコ>即ち<少年スリ、カッパライ>の蔑称となっています。ここではその一番目の意味の話。
 このNHK
のラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌が「とんがり帽子」という曲名であることを筆者は知りませんでした。つい先ごろまで「鐘の鳴る丘」という曲名だとばかり思っていました。このドラマは、終戦後の昭和227月から3年半にわたって延べ790回放送されました。ドラマは直ちに映画化され、<鐘の鳴る丘第一部隆太の巻、第二部修吉の巻、第三部クロの巻>三部作として上映されました。物語は、戦争で両親や家を亡くし、戦災孤児となって、社会からは疎まれ、掏り、置き引き、窃盗や喧嘩に明け暮れていた不良少年達が<チャリンコ>と呼ばれ巷にあふれていた時代。そうした境遇にあった隆太達少年少女も靴磨きなどをして懸命に生きようとしていましたが、<チャリンコ>同様に社会から疎外されていました。そのころ弟修吉を探していた復員兵加賀美修平に遇い、この人の作った高原の孤児院で喜びも悲しみも嘗めながら、たくましく成長していく、というものです。
 筆者は田舎育ちで、当時両親も健在でしたし、悲惨な戦争を身をもって体験したわけではありません。私の田舎でも出征兵士は大勢いましたが、空襲と言えば、B29が他の大都市を爆撃して帰り道に銀色の羽をきらめかして上空を通過する際、余った爆弾を捨てて行ったという話くらいのものです。しかし大本営が崩壊し、GHQの差金もあったのでしょうが、圧倒的な事実の奔流が入ってきて、それは世界全体から見たあの戦争の不条理さや悲惨な実態を私どもに示し、深く反省させるに十分なものでした。この「鐘の鳴る丘」も、悪事を働く戦災孤児がたくさんいた事実、それら生きるために悪事を働く子供が悪いのではなく、戦災孤児を大量に発生させ、目的のためにはそれを何んとも思わなかった日本の心情そのものが間違っていたことを、私達に知らしめたものの一つです。この放送の古関裕而の明るい主題歌は、明るければ明るいほど、背後の悲惨さを物語るものとして、やっと戦争の実態を理解しはじめた同年輩の子供たちに訴えかけたものです。特に<チャリンコ>は心に残りました。
 今の若い人たちは、この歌が戦災孤児のことを歌ったものだということは、説明しなければ分からないでしょうし、戦災孤児の悲惨さも、遠い別世界の話でしょう。だから自転車のことを何のためらいもなく、<チャリンコ>と呼べます。しかし私は自転車のことを<チャリンコ>と呼ぶのが大嫌いですが、現在の人たちが自転車のことを<チャリンコ>と呼ぶのに何の罪咎があるわけではありません。自転車をチャリンコまたはチャリと呼ぶようになったのは、昭和5055年頃かららしいのですが、そう呼称するようになった要因には諸説あって、@自転車のベルの音が、<リンリン>または<チャリンチャリン>と聞こえるから、A韓国語で自転車のことを<チャルンケ>というから、B戦後少年の掏摸のことを<チャリンコ>といったから、などがあります。しかし、Bはありません。これは、戦後暫くして、浮浪児や戦災孤児を更生させるのが、大きな国民の戦後処理義務の一つとなるにつれ、廃語となっていったからです。Aも、昨今の韓流ブームのときならいざ知らず、昭和50年代となると、あまり考えられません。結局のところ@に帰結するのでしょうが、だれが、どこで、一番最初に明確に自転車を<チャリンコ>と呼ぶようにしたのか、知りたいところではあります。いずれにしても、一旦廃語同様になったものが一世代を経て復活するようなことはないでしょう。
 この「鐘の鳴る丘」の映画ロケ地は信州安曇野にあった<有明高原寮>だそうです。また群馬県前橋にも<鐘の鳴る丘少年の家>があり、菊田一夫が<とんがり帽子の時計台>のモチーフに使った建物(岩谷堂町役場)が岩手県江刺市(現:奥州市江刺区南町)に<明治記念館>として残っています。菊田一夫は、これ以後にも「君の名は」で女風呂を空っぽにし、演劇界の第一人者として活躍しましたが、悲惨な苦しみを乗り越えて、明日への希望を繋ぎつつ明るく生きていこうとしている少年の心を、このドラマに巧みに描きました。
 古関裕而は、戦時中たくさんの戦意高揚の軍歌を作曲しましたが、戦後になって戦争中の自分を真に反省した人で、この「鐘の鳴る丘」、や長崎物三部作「長崎の鐘」(作詞:サトウ・ハチロー)、「長崎の雨」(作詞:丘灯至夫)、「雨のオランダ坂」(作詞:菊田一夫)、「君の名は」(作詞:菊田一夫)など抒情歌を作曲しています。

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