「めんこい仔馬」と軍馬哀歌
昭和16年にサトウ・ハチロー作詞、仁木他喜雄作曲でつくられた「めんこい仔馬」は、東宝映画『馬』(監督:山本嘉次郎、助監督:黒澤明、主演:高峰秀子)の主題歌である。戦後改変された歌詞により現在は童謡であるが、何しろ日米開戦の年に作られた軍馬映画の主題歌なので、小国民向けの軍歌ともいえるものだった。当時の歌詞は以下のようだった。
(一)ぬれた仔馬のたてがみを 撫でりゃ両手に朝の露
呼べば答えてめんこいぞ オーラ 掛けて行こうよ丘の道
ハイド ハイドウ 丘の道
(二)藁の上から育ててよ いまじゃ毛並みも光ってる
お腹こわすな風邪ひくな オーラ 元気に高くないてみろ
ハイド ハイドウ ないてみろ
(三)紅い着物(べべ)より大好きな 仔馬にお話してやろか
遠い戦地でお仲間が オーラ 手柄を立てたお話を
ハイド ハイドウ お話を
(四)西のお空は夕焼けだ 仔馬かえろかおうちには
お前のかあさん待っている オーラ 唱ってやろかよ山の唄
ハイド ハイドウ 山の唄
(五)明日は市場かお別れか 泣いちゃいけない泣かないぞ
軍馬になって行く日には オーラ みんなでバンザイしてやるぞ
ハイド ハイドウ してやるぞ
特に三番と五番に軍事色が強く、戦後GHQにより改変を迫られたものと思われる。「長崎の鐘」や「りんごの唄」などを作ったサトウ・ハチローといえども、この戦雲急を告げる時代に<愛>のみを書くわけに行かなかったのだろうし、第一この元歌は軍馬映画の主題歌である。抒情的に書いても検閲で日の目を見ることは無かったろうし、事実、戦後に抒情歌として再リリースされたもので、戦中は発禁若しくは自主規制となっていたものが少なからずあった。
映画『馬』にはモデルがあって、軍馬名を<勝山(かつやま)号>といった。勝山号は昭和8年九戸市軽米町鶴飼牧場で生まれ、幼名は第三ランタンタン。チャグチャグ馬っ子の南部駒なので当然農耕作業に従事していたが、4歳の春、軍馬の徴用検査を受けて合格するや、中国戦線に将校馬として徴発され、幾たびも銃弾の下を潜り抜け、背に乗せた将校3名は戦死したものの、自身は3度死地から甦った。昭和14年、勝山号は<不死身の名馬>として、特別の思し召しをもって戦地から送還され、「甲功賞」(兵士で言えば金鵄勲章)の褒章馬となり明治神宮の御神馬となって、戦意高揚の材料とされた。映画『馬』は、勝山号が褒章馬となった、栄光の年に作られたので、英雄馬として描かれているようだが、とにかく人懐こい馬で、その大半は農耕馬時代に江刺の農家の少女(高峰秀子役)との心の交流が描かれていたという。メキシコ映画『黒い牡牛』に通じるものがある。しかし戦時中に大功を挙げ賞賛されたものの戦後の末路は、惨めな場合が多かった。この勝山号も例外ではなかった。進駐軍のGHQは勝山号を神宮の御神馬の座から追放し、勝山号は<凡馬>となって、神奈川県の軍馬収容所に入れられ、戦後食糧難の折から、食肉業者に払い下げられることとなったのである。しかし、その消息を知った、高峰秀子扮するくだんの映画にも登場した南部江刺の元馬主農家一家が、勝山号救出を企てる。正に食肉業者の手に渡ろうとした危うい所で勝山号救出に成功した農家一家は、GHQや食肉業者や飢えた人々の目に脅えながら、何日も逃避行を続け、南部江刺に連れ帰ったのである。だが、故郷での幸せな日々は長くは続かず、勝山号は農耕馬に戻って2年ほどで、狂い死にしてしまう。原因は、死後解剖の結果、勝山号の頭と首筋から出た大きな砲弾の破片二つ。ゴトンと落ちたと言う。正に壮烈な戦死であった。
『馬』という映画を私は見たことが無いのではっきりしたことはいえないが、映画の出来た昭和16年以後の勝山号の辿った道もまた波乱万丈で、合わせて制作したら凄い映画になると思うが、そのような企画があったことは、ついぞ聞いたことがない。また、サトウ・ハチローが、勝山号の最後を知っていたかどうかは明らかではないが、彼は戦後、「めんこい仔馬」の歌詞を変えているのは既述の通りで。上記元歌の一番、二番、四番は同じだが、三番、五番の戦時色の強いところは削除され、新四番として以下のものが挿入された。
(一)元歌の一番と同じ
(二)元歌の二番と同じ
(三)元歌の四番と同じ
(四)月が出た出たまんまるだ 仔馬のお部屋も明るいぞ
よい夢ごらんよねんねしな オラあしたは朝からまたあそぼ
ハイドハイドウ またあそぼ
※ 元歌の三番と五番は削除された
この改作が、サトウ・ハチローの意に沿ったものだったかどうかは判然としないが、少なくとも元歌の五番にある<みんなでバンザイしてやるぞ>というのは、仔馬の日常を描いていた四番までと比べるとあまりに唐突(映画に合わせるためというのは勿論有る)で、戦後の改作が、一番→朝、二番→昼、三番→夕方、四番→夜の情景と一貫したものとなったことを考えると、サトウ・ハチローが意図して改作したものと思われる。またサトウ・ハチローは既にこの「めんこい仔馬」より6年前の昭和10年に「もずが枯木で」を作詞している。これはまごうかたなき反戦歌であろう。まだ昭和10年だったから許された、ということもあるかもしれないが、この歌の「兄(あん)さは満州に行っただよ、鉄砲が涙で光っただ」という所は改変されていない。
この「めんこい仔馬」以外にも、軍馬が関係して戦後改作された童謡に、武内俊子が作詞した「船頭さん」がある。
武内俊子は1905年(明治38年9月10日)生まれで1945年(昭和20年)4月7日没の享年39歳という若さだったが、この「船頭さん」の作られたのが「めんこい仔馬」と同じ昭和16年7月。元歌は以下の通り。
(一)村の渡しの船頭さんは ことし六十のおじいさん
年はとってもお船をこぐ時は 元気一ぱいろがしなる
ソレ ギッチラ ギッチラ ギッチラコ
(二)雨の降る日も岸から岸へ ぬれて舟こぐおじいさん
今日も渡しでお馬が通る あれは戦地へ行くお馬
ソレ ギッチラ ギッチラ ギッチラコ
(三)村の御用やお国の御用 みんな急ぎの人ばかり
西へ東へ船頭さんは 休むひまなく舟をこぐ
ソレ ギッチラ ギッチラ ギッチラコ
これが戦後の改作では、
(一)元歌一番と同じ
(二)雨の降る日も岸から岸へ ぬれて舟こぐおじいさん
けさもかわいい子馬を二匹 向こう牧場へ乗せてった
ソレ ギッチラ ギッチラ ギッチラコ
(三)川はきらきらさざ波小波 渡すにこにこおじいさん
みんなにこにこゆれゆれ渡る どうもご苦労さんといって渡る
ソレ ギッチラ ギッチラ ギッチラコ
元歌二番は正に「めんこい仔馬」と同じ理由により<戦地に行くお馬>はまずかろう、というわけで戦地→向う牧場と少し改作されたが、元歌三番の改作はどうして行われたのか分からない、という人も多いだろう。これは当時戦争の真っ只中で、<村の御用やお国の御用>といえば、国民一丸となって果たす御用、すなわち戦争遂行のための御用と見られたからである。
この「船頭さん」の補作は、峰田明彦となっている。もちろん戦後の改作=補作なのだが元歌の作者当人は、東京大空襲の一ヶ月足らず後の昭和20年4月7日に東京世田谷で病死してしまっていたので、改作には関係していない。戦後、多分GHQを慮ってのことであろうが改作された。子供への影響を考えたのと、何よりもこの歌がいい童謡で、何とか世に残したかった、と言うのが真相と思われる。
終戦までに徴発された軍馬は300万頭ともいわれている。昭和の初期の頃は、初めから軍馬として育成された馬であったが、中国で戦線が拡大するにつれて、農家からの徴用農耕馬が主体となっていった。当時の農家の厩は玄関脇の家の中にあり、馬は、寝起きから喜びも悲しみも共にしていた。しかも牛と違って、10〜20年も一緒にいたから、最早家族の一員そのものであったのだ。それが戦雲急を告げるに従い、若い馬から古馬に広がって行ったのは徴兵と全く同じである。10歳以上の古馬だから大丈夫だろうと思っていたら、徴発命令がきて、「とうとうやって来た」と息子に召集令状が来た時と同じような気持ちになった人も沢山いたと。銃器や携行品と同じく<天皇陛下より下賜された・・・>と、特に将校馬などは大切にされたこともあったらしいが、有事となれば、しょせんは道具扱い。輸送船などでは、立錐の余地も無い船倉に押し込まれ、熱さと飢えのため水を欲しがって、蹄で船倉の壁をガリガリと掻く音が聞こえたという。【船底の 馬房に馬の 足踏む音 鉄板一枚 へだててきこゆ】。また、馬は集団性が強く人懐こいので、戦局がどのようでも、怪我をしていても、部隊に懸命に着いて来る。体も大きいし恋しがって嘶くし、不利な撤退の時など標的として目立つので、集団で遺棄されたり処分されたりする。そして遺棄した軍馬に再びまみえることがあるのだ。【足をくじき 山に棄てられし 日本軍馬 兵を懐かしみ 歩み寄りくる】。競走馬の世界でも名馬キーストンの例もある。敗戦ともなると、折角戦争を生き延びても、帰還できた軍馬はほとんどいなかった。第一、混乱で何十万頭の馬を内地に送還する手段も金もその気もない。例え送還できても、日本各地の農家に一匹ずつ送り返す、金も労力も気力もない。となれば、銃剣同様纏めて現地に放棄するしかないのである。放棄された軍馬は、あるものは食肉店の店頭にぶらさがり、あるものは銃殺され、ごく運のいい馬が、乗馬用として残ったり、現地農家の農耕馬となったりしたのだろう。故郷の山河を夢見ながら・・・
勝山号はそれでも故郷に辿り着いた誠に稀有な馬だったわけだ。 2007/08/14