昭和16年(1941年)   JASRAC No.044−0123−9(消滅)
 船頭さん
     
     作詞:武内俊子(PD)  作曲:河村光陽(PD)  MIDI制作・編曲:滝野細道

  (一)
   村の渡しの 船頭さんは
   ことし六十の」おじいさん
   年はとっても お船をこぐ時は
   元気一ぱい ろがしなる ソレ
   ギッチラ ギッチラ ギッチラコ





下の(二)、(三)番は戦前の元歌
青い部分は変更箇所
補作:峰田明彦


  (二)
   雨の降る日も 岸から岸へ
   ぬれて舟こぐ おじいさん
   けさもかわいい 子馬を二匹
   向こう牧場へ 乗せてった ソレ
   ギッチラ ギッチラ ギッチラコ

()
雨の降る日も 岸から岸へ

ぬれて舟こぐ おじいさん
今日も渡しで お馬が通る
あれは戦地へ 行くお馬

それ ぎっちら ぎっちら
ぎっちらこ

  (三)
   川はきらきら さざ波小波
   渡すにこにこ おじいさん
   みんなにこにこ ゆれゆれ渡る
   どうもご苦労さんと いって渡る ソレ
   ギッチラ ギッチラ ギッチラコ

()
村の御用や お国の御用
みんな急ぎの 人ばかり
西へ東へ 船頭さんは
休むひまなく 舟をこぐ

それ ぎっちら ぎっちら
ぎっちらこ
     童謡・唱歌  懐かしのメロディー 八洲秀章&抒情歌 昭和戦後の歌謡曲・演歌   2006/SEP/01 開設曲
     

船頭さん】
人間の平均寿命は格段の伸長を見まして、この歌を聴くとカチンとくる人も多くなりました。そう、今年六十のお爺さん 年は取ってもお船を漕ぐときは、というくだりです。昭和10年頃の時代でしたし、武内俊子が1905年(明治38910日生まれの1945年(昭和20年)47日没の享年39歳、河村光陽が1897年(明治30823日生まれの1946年(昭和21年)1224日没の享年49歳の若さだった時代ですから、むべなるかなとも言えます。
替え歌で、
裏の私の仙造さんは今年六十のお祖父さん 年を取ってお舟を漕ぐときは精一杯首しなる ソレ コックリ コックリ コックリコ、なんぞと歌っていたのですからね。
この「船頭さん」の補作は、峰田明彦となっています。この人は旭川出身の人らしいのですが、戦後「船頭さん」の歌詞を
(多分GHQを慮って)改作しました。元歌は昭和16年の戦雲真っ只中で作られたものですから、戦意高揚のものでした。一番の歌詞は全く同じですが

【上記左行の(二)、(三)を参照】

・・・・という具合の歌でした。子供への影響は一番大きいのでそうなったのでしょうが、何よりもこの歌がいい童謡で、何とか世に残したかった、と言うのが真相でしょう。このことは「めんこい仔馬」でも行われています。軍馬哀歌
この改作と全く同じようなことが「森の小人」にもありました。「森の小人」の原作名は「土人のお祭り」(玉木登美夫作詞、山本雅之作曲)でしたが、GHQにより改変を命じられ「森の小人」となりました。「船頭さん」同様、一番はほぼ同じ、二、三番は大幅改作となりました。また、「船頭さん」の武内俊子同様、作詞者の玉木登美夫(作家の金谷完治)も改作時すでに死亡しておりました。キングレコードのディレクターは戦前は柳井堯夫、戦後は田中律夫(山川清)で両曲とも同じだったと思いますが、「土人のお祭り」が「森の小人」山川清作詞、山本雅之作曲となり、一方「船頭さん」は「船頭さん」武内俊子作詞、峰田明彦補作詞、河村光陽作曲となりました。この相違はなぜ出来たのでしょうか?曲名が変わったか否かというのが唯一の違いですが・・・
 渡し舟背景の樹木は【イラスト集・ホームページ素材集】より

河村光陽の当倶楽部内のアップ曲
河村光陽当倶楽部の作曲
曲  名 作  詞 歌  手 歌 い 出 し
赤い帽子白い帽子 武内俊子 河村順子 赤い帽子白い帽子仲よしさんいつも
うれしいひな祭り サトウハチロー 河村順子 灯りを点けましょぼんぼりにお花を
かもめの水兵さん 武内俊子 河村順子 かもめの水兵さんならんだ水兵さん
グッドバイ 佐藤義美 - グッドバイグッドバイグッドバイバイ
船頭さん 武内俊子 河村順子 村の渡しの船頭さんは今年六十の
仲良し小道 三苫やすし 小鳩会 仲よし小道はどこの道いつも学校へ
早起きどけい 富原 薫 河村順子 チックタックチックタックボーンボン
ほろほろ鳥 佐藤義美 - ほろほろ鳥は雨ふらす雨がふります
りんごのひとりごと 武内俊子 河村順子 わたしは真赤なリンゴですお国は