童謡の解釈にはいろいろあって、特に野口雨情のものには、それが多いようです。例えば、「シャボン玉」における<生まれて直ぐに壊れて消えた>とか、「十五夜お月さん」の<かかさんに も一度わたしはあいたいな>、「青い目の人形」が<キューピー人形かフランス人形か>、「赤い靴」の<岩崎きみちゃんの物語>、「小石」の<向こう横丁でひろた>など、などあります。しかし、背景にあるものは別として、詩そのものの内容が自己矛盾したり、二つ以上の異なった解釈ができるものはありません。「赤とんぼ」の<おわれてみたのは>といった誤解によるものとは違います。
 ところが、この「七つの子」は一般に歌詞全体から解釈できるものとは別の解釈があり、一般の解釈は間違いだ、とする論があります。野口雨情の研究家に強い見解があるというから驚きです。ある学者氏などは言語学の陥穽に落ちた典型で、木を見て森を見ないとはこのことかも。先ず<七つの子>とは、七羽の子ガラスではなく、<ななつ>はひとつ、ふたつと年を数えるときに使うから、<七歳の子>のことだとします。七歳のカラスがどういうものかは一切無視しています。それを無視してしまったら詩の生命が絶たれます。また、<七つの子>は単数形で、七羽の子だったら<七つの子ら>でなければおかしい、とか、実はカラスにかこつけて人間のこどもの歳・・・云々。いずれも詩人の感性とは全く無縁の論です。
 詩人の感性を言葉に変えたものが<詩>です。<詩>は詩人の手を離れたら一人歩きをはじめますから、解釈は自由ですが、詩人の感性は汲み取らなければなりません。ここで注目しなければならないのは二番の<(信じられないなら実際に)山の古巣へ行ってみてごらん>という、くだりでしょう。カラスは古来より、【煩くカアカアと鳴いて、死肉を漁る、真っ黒な不吉な鳥】として嫌われて来ました。そこを詩人が、「カラスをただ忌み嫌ってはいけない。カラスが煩く鳴くのは、山の巣にお腹を空かした沢山のヒナ鳥がいて、餌を待っている。可愛い子にご馳走をあげたい、可愛い子に餌をちょうだいといって、やさしい母さんカラスが鳴く場合だってあるんだよ。嘘だと思ったら行って見てご覧。本当に可愛い良い子なんだから」、と詠んだのです。つまり、社会に逸れた隅のものに対する詩人の温かい目を見なければならないのです。だからこそ、この<詩>は素晴らしい。<カラス>を<ウグイス>に置き換えてご覧あれ。<カラス>でなくてはならないのが、よく分かるでしょう。<七羽の子>を<七歳の子>に置き換えてご覧あれ。巣の中で首を長くしてワイワイ騒いでいる<七羽のヒナ>でなくてはならないのが、よく分かるでしょう。海沼実の「カラスの赤ちゃん」にも通じるものがあります。
P.S..<七つ>は確かに問題がありますが、<七匹の小山羊><七人の小人><七人の侍><七色の虹><親の七光り><七不思議>・・・まあどういうことも無い、多からず少なからず、と言う意味で、<五つ>や<六つ>は使いにくかったのでしょう。

「野口雨情童謡の世界」はこちら

大正10年(1921年)7月    JASRAC No.059-0169-3 

七つの子


作詞:野口雨情(PD)
作曲:本居長世
(PD)(曲目)
MIDI制作:滝野細道



烏 なぜ啼くの 烏は山に
可愛い七つの 子があるからよ

可愛 可愛と 烏は啼くの
可愛 可愛と 啼くんだよ

山の古巣へ 行って見て御覧
丸い目をした いい子だよ



童謡・唱歌  懐メロ  八洲秀章&抒情歌   「細道のMIDI倶楽部」TOPへ  2006/SEP/01 開設曲


           

         本居長世の当倶楽部内のアップ曲

本居長世当倶楽部の作曲
曲  名 作  詞 歌  手 歌 い 出 し
青い眼の人形 野口雨情 - 青い目をしたお人形アメリカ生まれ
赤い靴 野口雨情 - 赤い靴はいてた女の子異人さんに
おてんとさんの唄 野口雨情 - 赤い花咲いたいい花咲いたてれ
お山の大将   西条八十 お山の大将おれひとりあとから来る
汽車ポッポ 本居長世 - お山の中行く汽車ポッポポッポ
小石 野口雨情 - 向こふ横丁で小石をひろたひろた
十五夜お月さん 野口雨情 - 十五夜お月さんご機嫌さんばあや
俵はごろごろ 野口雨情 - 俵はゴロゴロお蔵にドッサリコお米
通りゃんせ 日本古謡 - 通りゃんせ通りゃんせここはどこの
七つの子 野口雨情 - からすなぜ鳴くのからすは山に
にわとりさん 野口雨情 - ひょっこかかさん母鶏さん鳥屋に
三日月さん 野口雨情 - やまの上の三ヶ月さんは細いこと
めえめえ小山羊 藤森秀夫 - めえええ森の小山羊森の小山羊
四丁目の犬 野口雨情 - 一丁目の子ども駈けかけかえれ