創作「盗作騒動」

野口雨情の童謡の世界

野口雨情の童謡の世界 

 野口雨情は1882年(明治15年)5月29日に茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市磯原町)に生まれ、1945年(昭和20年)1月27日に宇都宮市鶴多町で没した詩人であるが、雑誌<金の船>の童謡作家として特に名高い。本名は野口英吉。同じく童謡では高名な北原白秋(こちらは雑誌<赤い鳥>)と甲たり難く乙たり難いが、現代に残ったものでは、雨情の方が多いのではなかろうか。簡単に両者の童謡代表作を列挙してみる。

[野口雨情]青い眼の人形赤い靴あの町この町雨降りお月さん黄金虫信田の藪シャボン玉十五夜お月さん証城寺の狸囃子七つの子,四丁目の犬
[北原白秋]赤い鳥小鳥あめふりあわて床屋かやの木山からたちの花この道砂山ちんちん千鳥ペチカ待ちぼうけゆりかごの唄、 

 まあ、どっちとも言えないけれど、童謡では雨情の方に軍配が上がりそうである。しかし、象徴詩集<邪宗門><思ひ出><落葉松>や短歌集<桐の花><雀の卵>などそれぞれの分野でもトップを維持している白秋に対し、雨情の詩集はいま一つである。文壇的にはいざ知らず、総合的にはおおっつかかっつ、といったところだろうか。
 雨情は東京専門学校(現:早稲田大学)を一年で中退し、詩集<枯草>を自費出版したのち、北海道にわたって<小樽日報>で新聞記者をしていた時、石川啄木の知遇を得た。このころ聞いた挿話が童謡「赤い靴」に結実するのだが、1909年北海道を離れ帰郷する。それから10年後の1919年に詩集<都会と田園>で詩壇に再登場するまでは雌伏のときであったが、その頃童謡雑誌<金の船>に遭遇し、一挙に童謡作詞家として開花したのであった。特に、国学者本居宣長の子孫の作曲家本居長世との出会いが大きく、両者の作で世に残ったものは枚挙に暇がない。長世とは上掲の超有名曲だけでも、「青い目の人形」「赤い靴」「十五夜お月さん」「七つの子」「四丁目の犬」を数える。一方で、中山晋平も「あの町この町」「雨降りお月さん」「黄金虫」「シャボン玉」「証城寺の狸囃子」と一歩も引けをとらないが・・・
 野口雨情の童謡には思わぬところに由来が多く、そのソースはどうだこうだ、歌詞の真意はここにある、などとよく評論家の俎上に上がる。
青い眼の人形BGM  
 「青い眼の人形」は大正12年詩作されたが、<セルロイド>という歌詞からも分かるようにキューピー人形から想を得、雨情自身もそのように述べている。これに本居長世が作曲して国内で大流行し、アメリカ公演でも歌詞と相俟って、“Blue Eyed Doll”と呼ばれ、大盛況だった。しかし、現在、この歌を歌っていて思い浮かべる青い眼の人形のイメージはキューピー人形ではなく、何かしらフランス人形的なものが想起される。これは、この曲の5年後の昭和2年、アメリカから親善使節としてパスポートや渡航切符付きで送られてきた、12,000体ものビスクドール(ジュモーなど)人形のイメージがあるからだ。即ち、この曲とこの寄贈された人形には直接の関係はないが、贈られて来た人形たちが<青い目の人形>と呼ばれたのは、間違いなくこの曲がヒットした影響であろうし、そもそもアメリカからの親善使節にこの青い目の人形たちが選ばれて送られてきたキッカケが、”Blue Eyed Doll” であった可能性もある。そして、戦後、この戦争を乗り越えてきた青い目の人形が発見される都度新聞報道され、青い目の人形=フランス人形のイメージが定着したものと思われる。こういう心温まる民間の交流も、人形が送られてきて、日本からはお礼の京人形が海を渡ってわずか10年ほどで、イケイケドンドンの人たちによって、日米は犬猿の仲となる。雨情の「青いの人形」も<金の船>に発表された当時は<青いの人形>であったが、どのような経緯があったのか、標題のように変更された。現在は、童謡=青い眼の人形、親善使節=青い目の人形、と表記するよう統一されているようである。
赤い靴BGM  
「青い眼の人形」と「赤い靴
」のイメージは、異国、少女、港・横浜、赤と青の色のモチーフ、歌詞の中の<青い目>などで、つい重なって見えてしまう。内田康夫の<横浜殺人事件>はまさにこの両方の歌の混乱がミステリーのキーポイントとなっている。雨情の多くの童謡のように、この<赤い靴はいてた女の子>にも実際のモデルがあり、岩崎きみちゃんというのがその赤い靴を履いた女の子だった。この歌は、雨情が前述の小樽新報で記者をしていたとき、岩崎かよという北海道開拓団の一女性から聞いた話に基づいている。岩崎かよさんは3歳のきみちゃんを連れて北海道開拓団に参加すべく静岡から北海道にきて、鈴木志郎氏を夫に入植しようとしたが、開拓農民の生活の過酷なことからきみちゃんを連れて行けず、札幌の宣教師夫妻に託すこととなった。志郎氏とかよさんは開拓の夢破れて札幌に帰って来て、志郎氏が新聞記者となって雨情と机を並べたことから、雨情がその経緯をかよさんから知るところとなったのである。かよさんはきみちゃんを宣教師チャールス・ヒュエット師夫妻に託して別れた以後のことは知らず、東京からアメリカへ帰任したという宣教師夫妻に連れられてアメリカヘ渡って幸せに暮らしていると信じて、その話を雨情に聞かせたのであった。しかし実際は、開拓に向かう母かよさんと別れ、宣教師夫妻に養女としてもらわれて東京に来たきみちゃんは、6歳のとき結核に罹り、施設で療養することとなってしまったのだった。宣教師夫妻は本国に召還されることとなったが、きみちゃんはとても当時の長い船旅に耐えられる体ではなく、施設に残ることになって、9歳のとき日本で亡くなったのだった。つまり<赤い靴を履いた女の子は異人さんに連れられて異国には行って>いないのだが、母親のかよさんはずっときみちゃんの幸せを信じていたという。雨情がこの詩を発表した大正10年にはきみちゃんはすでに死去していたが、雨情としてもその後の経緯を知るべくもなく、<きみちゃんの幸せを信じて>この哀愁をおびた歌を本居長世に託したのである。きみちゃんのその後を知っていたならば、勿論このような歌詞にはならないし、むしろ「シャボン玉」のように明るいものとなったろう。幸せを信じていたからこそ、本当にそれで良かったのかというかよさんの悔恨と、遠い外国に分かれ分かれとなっている親子の心情に焦点を当てて、このような歌詞、このようなメロディーとなったのであろう。
【あの町この町】BGM 
 雨情は茨城県の北端(現在の北茨城市)の出身であるが、この「あの町この町」の歌碑は栃木県宇都宮近郊にある。これは、この歌自身の内容から来るものでも、作曲者中山晋平ゆかりのものでもなく(中山晋平は信州の人)、野口雨情が戦時中同地に疎開しており、終焉の地が宇都宮市鶴田町であったことによるものと思われる。それにしてもこの歌詞の不思議なのは、<お家がだんだん遠くなる遠くなる>という所であろう。<今来たこの道帰りゃんせ>といいながら<遠くなる遠くなる>というこの歌詞は、何か四次元パラドックスに落ちこんだような気がする。「赤とんぼ」の<おわれてみたのは>と双璧のような気がするけれど、読者は歌っていてどう思われたか?もしかして迷子の歌?一つの解釈に、【子供が家を離れて遊び呆けていて、はっと気が付いたら夕闇が迫っていた。早くお家に帰らなくちゃいけないのに、お家はだんだん薄闇につつまれて、遠くぼんやりしてきた。空を見るともう星も瞬きだし、早く帰りなさい、吸血鬼が出るよ、と、天からの声】というようなのがある。それとも、依怙地になってどんどん遠回りしているうちに、お家が遠くなっていく、と解釈されるか? 筆者には、わらべうた「通りゃんせ」の<行きはよいよい帰りはこわい>のパラドックスと同様のものが背景にあるような気がしてならない。「通りゃんせ」自体、菅原道真の伝説や伊弉奈枳命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の黄泉伝説にまで繋がるものかも知れないと思うが、その作意は分らなくても、子供の夕暮れに対する寂寥感と心の葛藤を演繹的に形而上的に表現した、と言ったら言い過ぎだろうか・・・
雨降りお月さんBGM  
 「雨降りお月さん」の一番は、雨情が童謡集『蛍の燈台』に【雨降りお月】として発表したものに、中山晋平が曲を付したものだったが、のち童謡集『コドモノクニ』に発表された【雲の蔭】に再び晋平が作曲し、それを先の雨降りお月の二番として纏めて、晋平の提言により【
雨降りお月さん】とすることにしたというのが一応定説となっている。まだ、題名そのものを「雨降りお月」としている人もいる。それよりも、例によって内容がまた難解である。<子供に対する歌がこんなに複雑難解で良いのか?>と言う声も聞こえるが、もともと童謡運動自体が<小さき人たちへの文芸作品を>という意気込みで始まったものなので、あるいは仕方ないともいえる。子供の頃は筆者も<お月さんがお嫁に行く>と思って何の疑いもなく歌っていたが、長じて<はて、面妖な>と思い始めたらこの歌が分からなくなった。まず、主語(主人公)が分からない。お月さん?お嫁さん?雨情本人?まさかお月さまということもあるまい、と決めつけると、♪お嫁に行くときゃ誰と行く?♪、♪唐傘ないときゃ誰と行く?♪という問は誰が誰に発したのか?また、♪一人で唐傘さしてゆく♪、♪しゃらしゃら・・・お馬に揺られて濡れてゆく♪は誰が誰に答えたのか?という疑問が生じる。一番の【雨降りお月】はまだ何とかこじつけられるが、二番の【雲の陰】となると、♪急がにゃお馬よ夜が明けよ♪は、誰が言っているのか?♪手綱の下からちょいと見たりゃ♪と見た人は誰なのか?♪、とますます分らなくなる。一番と二番は主体が全く違う。・・・・・と言う訳で十人十色の解釈があるが、ここは筆者独自の見解を披瀝せざるを得ない。【結婚に憧れと懼れを抱いている少女に対し:夜行には希望の象徴であるお月さんも必要な時に隠れてしまうこともある。その時は自分の力で障害を取り除いて進むしかない。決断が遅れると取り返しがつかなくなることもある。決断の過ちもあろう、悩みもあろうが多少の悩みはじっと我慢すれば氷解するものだ。決めたら進むのが結婚というものだよ】こうしたバラバラの想念をサブリミナル的にばら撒いて、演繹的に<日本民族の嫁入り>を童心と感性に訴えようとしたのが雨情の真意であると思う。難しいが・・・
シャボン玉BGM
 この歌は1920年(大正11年)童謡雑誌<金の塔>に発表された。雨情の童謡には挫折するもの、消えていくものへの郷愁が色濃く出ている作品があり、「十五夜お月さん」「赤い靴」「あの町この町」「雨降りお月さん」そしてこの「シャボン玉」がある。シャボン玉は楽しく吹いて遊び、弾けて消えるのは当たり前ではないか、この曲は楽しさ明るさが出ている、消えるものへの郷愁などとんでもない。子供は、歌詞とメロディーからその子が描いたその子の世界で良いではないか、と。それはその通り。すべての童謡がその通りである。しかし、長じて歌詞の背後には何があったのかに思いを致し、それを理解して歌うのも、この歌に接するもう一つの意味があろう。この歌の背景には、雨情が忘れようとしても忘れえない事情があると言われている。雨情27歳の頃(明治413月)先妻高塩ひろとの間にできた、生まれて7日目の愛娘みどりを亡くすという悲劇に見舞われたことがあった。それがずっとトラウマとなって心に残り、詩にも表れるというのである。そんな関係でこの「シャボン玉」を見ると、歌詞やメロディーは底抜けに明るいのだが、♪屋根まで飛んで壊れて消えた♪という詞も生者必滅を表わしているように見えてくるから不思議だ。特に二番の歌詞は涙なくしては歌えなくなる。♪シャボン玉消えた、飛ばずに消えた、生まれてすぐに、壊れて消えた♪というところは、まさにみどりちゃんの死をあらわしていると言われ、雨情の胸中察するに余りある。
証城寺の狸囃子BGM
 証城寺の狸囃子」の証城寺とは、木更津市にある<浄土真宗 本願寺派 護念山 證誠寺>のこととされている。木更津には昔から<狸ばやし伝説>があって、大体歌詞のようなのだが、この伝説の最後は『・・・夜毎和尚さんとポンポコ踊りを競っていた狸たちが、ある晩突然来なくなった。心配した和尚さんが翌日探し回って見ると、庫裡の床下にリーダーの大狸がお腹の皮が破れた姿で死んでいた。憐れに思った和尚さんは大狸を手厚く葬ってやった』というものであった。それを、木更津に来た野口雨情が聞いて、「証城寺の狸ばやし」として童話誌「金の船」に掲載し、中山晋平が曲をつけた。そして国内のみならず英語に翻訳されてヒットし、米国のジャズバンドのスタンダードナンバーとなった。これは日本の童謡から出たものとしては、世界に最も知られた歌であろう。<證誠寺>が<証城寺>誠→城となった経緯には諸説あって、@雨情が参考にした地元の書籍が間違っていた、A我が旦那寺の和尚さんが狸と踊ったなんてとんでもない、と檀家からクレームがついた、B最初からAを慮って<木更津の證誠寺>と特定されないよう雨情自身が配慮した、というものである。
十五夜お月さんBGM
 国文学者金田一春彦氏は、自著『十五夜お月さん』の中で、作曲者本居長世を<日本童謡の父>と呼び、この歌が<日本童謡の嚆矢>であるとしている。異論はあろう。文部省唱歌の第一号は「てるてるぼうず」、赤い鳥運動が始まったのが1918(大正7)で、「十五夜お月さん」が1920年。すでに「雨」「赤い鳥小鳥」「かなりや」「夕焼け小焼け」「靴が鳴る」など後世に残る童謡がどんどん出ていた。しかしそれらは、成田為三、弘田龍太郎、山田耕筰などの西洋音楽の旋律が主流で、どうしても借りてきた童謡の感が否めなかったが、この歌により日本古謡の旋律が取り入れられ、真の日本の童謡になった、とするのである。言われてみれば、この曲の♪十五夜お月さんご機嫌さん♪の部分は、わらべうた「うさぎ」の♪十五夜お月さま見て跳ねる♪の音階と同じである。雨情はこの「十五夜お月さん」について概ね次のように言っている。<お母さんが亡くなってしまい、妹は田舎の親戚へ貰われて行ってしまった。長年世話してくれた婆やも暇を取って故郷へ帰ってしまい、自分一人が残されてしまった。そういう淋しさを歌ったものだ。十五夜のお月さんを見ていると、何だか、お月さんに話をしてみたくなって『十五夜お月さん御機嫌さん』と言ってみて、お月さんに心中の悲しさを訴えたのだ。子供は誰でもそういう童心と感性を持って生まれたはずだ>。雨情は童謡を通じてそれを子供に訴えかけようとしたのである。そういう意味でこの歌は童謡の先駆けとも言え、嚆矢ともいえるのであろう。ただし、雨情自身の経験にこうした物語はなく、婆やがいたようなある資産家が破産して一家は離散してしまい、残された育ちの良い少女の話を人伝に聞いたことから、この歌を書き上げたといわれている。「赤い靴」と同様のパターンだ。
【七つの子】BGM
 童謡の解釈にはいろいろあって、特に野口雨情のものには、それが多い。まあ有名税みたいなものでもあるが、背景にあるものは別として、詩そのものの内容が自己矛盾したり、二つ以上の異なった解釈ができるものはない。「赤とんぼ」の<おわれてみたのは>といった誤解によるものとは全く違う。ところが、この「七つの子」は一般に歌詞全体から解釈できるものとは別の解釈があり、一般の解釈は間違いだ、とする論がある。野口雨情の研究家に強い見解があるというから驚くほかない。ある学者氏などは言語学の陥穽に落ちた形で、はからずも木を見て森を見ない典型を披瀝している。先ず<七つの子>とは、七羽の子ガラスではなく、<ななつ>はひとつ、ふたつと年を数えるときに使うから、<七歳の子>のことだと主張する。七歳のカラスが<可愛い丸い目をしたいい子>かどうかは一切無視して、言葉のみで論議する。それを無視してしまったら詩の生命が絶たれてしまう。また、<七つの子>は単数形で、七羽の子だったら<七つの子ら>など複数形でなければおかしい、とか、カラスはせいぜい5個くらいしか卵を産まない、あるいは、実はカラスにかこつけて人間のこどもの歳を・・・云々(おぼろお月さん」「」などと同様)。いずれも詩人の感性とは全く無縁の論である。この辺のことは雨情の最も危惧したところで、先の「十五夜お月さん」の自詩解説でも知識偏重を批判して、<人はとかく、お月さんは天文学的に見るとどうだとか、ウサギと見えるのは実際にはこうだとか言って、童心に宿るべき夢や感性を否定したりする。何も知識を否定するものではないが、知識をもって『以前に持つてゐたやうなお月さんに対する美しい詩的空想が害されて』しまったり、『童謡を作らうといふ気分になつた時だけはいろんな智識を持つてゐる為に、真実の子供らしい感情や夢のやうな空想を曇らしてしまはないやうに気を附けなければなりません』童謡やそれが作る子供の夢や感性を否定してはいけない>(『童話作法問答』交蘭社 大正10年抜粋)、というようなことを言っている。
 詩人の感性を言葉に変えたものが<詩>である。<詩>は詩人の手を離れたら一人歩きをはじめるから、それぞれ解釈は自由なのだが、詩人の感性は汲み取らなければならない。ここで注目しなければならないのは二番の<(信じられないなら実際に)山の古巣へ行ってみてごらん>というくだりで、カラスは古来より、【煩くカアカアと鳴いて、死肉を漁る、真っ黒な不吉な鳥】として嫌われて来た。そこを詩人が、<カラスをただ忌み嫌ってはいけない。カラスが煩く鳴くのは、山の巣にお腹を空かした沢山のヒナ鳥がいて、餌を待っている。可愛い子にご馳走をあげたい、可愛い子の餌をちょうだいといって、やさしい母さんカラスが鳴く場合だってあるんだよ。嘘だと思ったら行って見てご覧。本当に可愛い良い子たちなんだから>、と詠んだのである。つまり、雨情特有の<消えゆくもの>、<社会に逸れた隅のもの>に対する詩人の温かい目を見なければならないのである。だからこそ、この<詩>は素晴らしい。<カラス>を<ウグイス>に置き換えてご覧あれ。<カラス>でなくてはならないのが、よく分かる。<七羽の子>を<七歳の子>に置き換えてご覧あれ。巣の中で首を長くしてワイワイ騒いでいる<七羽のヒナ>でなくてはならないのが、よく分かる。
 ちなみに、<七つ>は確かに問題があろものの、<七匹の小山羊><七人の小人><七人の侍><七色の虹><親の七光り><七不思議><七つの子>・・・まあどういうことも無い、<七>は、ワイワイガヤガヤするのに多からず少なからず、と言う数で、単に<五つ>や<六つ>は使いにくかったのであろう。

付録:【波浮の港BGM
 野口雨情は伊豆大島へ渡ったことが無く、それが証拠に波浮の港から夕焼けは見えないはずだ、と主張している人がいる。その論はこの歌の素晴らしさを聊かも損なうものではないが、確かに以前は火口湖であった波浮の港の西南側には外輪山の陸地が大きく張り出していて、<海に沈む夕日>の夕焼けは見られないかも知れない。しかし、この写真(茅ヶ崎の海岸から伊豆方面を撮影したもの)のように山に沈む夕日は見えるし、港は赤く染まる。空の雲が一面真っ赤になる夕焼けだってある。♪波浮の港は夕焼け小焼け♪を太陽が海に沈む夕焼けが見られないから、行っても居ない所を見たように描くのは嘘だ、と決めつけても仕方がない。第一前述の何曲かで示しているように、雨情が人からの伝聞により作詞するのはごく普通のことであった。歌のできる以前に西条八十が波浮港を訪問しているということを聞いたことがある。西条から聞いた可能性は大いにある。さらに波浮の港近辺に「鵜」はおらず、日暮れにゃ帰らない、などとしつこいことを言う人もいるが、これも俄かには信じられない。現に波浮の港からは利島新島とともに<鵜渡根島>が見られる。鵜が渡る元の島と言うのがすぐ近くにあって、大島にはいなかったとどうして断言できるのか。今はは開発されて営巣地もなくなっているのは確かかもしれないが、当時も居なかったと言うのを確認した上での発言なのだろうか。と弁護しては見るものの、この歌が<素晴らしい>ゆえ生じたクレームであると思えば、♪我が物と思へば軽し傘の雪♪、であろう。

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