「赤とんぼ」諸説紛々

「赤とんぼ」諸説紛々
 この「赤とんぼBGMの作詞者三木露風と、清水かつらサトー・ハチローには共通点がある。いずれも、幼い頃実の母親が家を去り、継母やばあやに育てられたりして、童謡作家となってから、いずれも追想に基づく詩をつくっている。清水かつらは「あした」、「叱られて」など、サトー・ハチローは「小さい秋見つけた」や「小雨の丘」、「もずが枯れ木で」など、三木露風はこの「赤とんぼ」で幼い頃の淡い慕情と郷愁を歌い上げている。
 鈴木三重吉主唱の<赤い鳥運動>は、文部省唱歌などの教育的、訓示的な大人からの目線の詞を排し、子供と同等の目線で、子供の心に直接訴える童謡を提唱した。従って大人の目線からの、追想という形を取る童謡はあまりなかったし、推奨もされなかった。この「赤とんぼ」も童謡ではあるが、新体詩の趣も呈しており、現代の子供には難しい語彙、夕やけこやけ、おわれて、くわの実、こかご、ねえや、おさと、などが平仮名で書かれていて、それらを聞いて歌って育った人々の間で誤解が生じても止むを得ないものがある。

 まず1番から問題点をピックアップしてみよう。
 (一)
 夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か

 
Q1:<夕焼け小焼け>または<小焼け>というのは辞書にないが意味は?
 
A1:筆者は<小焼け>というのは、日が落ちて暮れゆく空に残る微かな赤い
    残照だと思っていた。確かに辞書には記載がないが、誰かある詩人が、
    暮れゆく空の移ろいを表わすために造語したのだろうと思う。他の例を二、
    三挙げると、中村雨紅作詞「夕焼け小焼け」では<夕焼け小焼けで日が
    暮れて>とあり、野口雨情の「波浮の港」には<磯の鵜の鳥ャ日暮れにャ
    帰る、波浮の港は夕焼け小焼け>というのは明らかに空の移ろいと、時の
    流れも表わしている。三木露風の詩集『樫の實』に発表された<赤蜻蛉>
    の一番には<夕焼小焼けの山の空 負われて見たのはまぼろしか>とあ
    り、一番には赤とんぼは出て来ない。
 
Q2:<負われて見たのは>は<追われてみたのは>の誤植ではないか?
 
A2:子供は概して自己中心の意識なので、歌詞の主語<赤とんぼ>に自分を
    憑依させてしまいがち。子供が耳から聞いて、または平仮名の歌詞のみを
    見て<赤とんぼ=自分、が追われる>と思っても仕方がない。また、子供の
    ころそう思い込んで、長じて分別が増してなお、平仮名で<おわれてみた>
    と書いてあるのを見て幼少のころの思い込みが是正されずに恥をかく人が
    いた。露風の原詩にも<負われて>とあり、意味は間違いなく<背中にお
    んぶされて見た>の意味である。そしてこの<負われて見た>は三番の
    <姐や>に絡んだ、詞全体の重要な部分なのである。
 
(二)
 山の畑のくわの実を 小籠につんだはまぼろしか

 
Q3:くわの実って何?見たことないけど果物?
 
A3:木綿糸は綿の繊維から直接できるが、絹糸は蚕が桑の葉を食して繭を作
    り、その繭が糸となる動物繊維だ。蚕蛾の幼虫は桑の新芽を食べ、大きく
    なるにつれて若葉、普通葉など食べて育ち、白い繭を作って蛹となる。山の
    畑など、桑を植えられる広さにより採れる繭の量も決まるので、養蚕時期
    が過ぎると桑の木は丸坊主となり、その後ボツボツと熟す桑の実は、野鳥
    の啄みや、子供のおやつなどに放置される。桑の実は葡萄の房を極く小さ
    くしたような濃紫の実で、時期には学校帰りの子供がお歯黒のように口を
    紫色に染めているのが見られたが、市販されるような果物ではない。桑の
    実は極小なので、小いさい籠に摘んでも一時には食べ切れない。歌詞にあ
    るのは、保存できるジャムなどを作るためと推察される。
 
Q4:詩集『樫の實』の一番は<夕焼小焼けの山の空 負われて見たのはまぼろ
    しか>とのことだが二番はどうなっているか?
 
A4:<山の畑の桑の實を 小籠に摘んだはいつの日か>となっていた。この二
    番は、一番の一、二年後の露風四歳前後で、歩けるようになり、記憶も比較
    的定かになって来た頃、姐やに手を引かれて桑の実摘みに山の畑に行った
    姿を彷彿とさせる。ただ、原詩の一番の記憶がごく薄い<まぼろしか>で、
    二番の記憶が少し曖昧にすぎない<いつの日か>と表現されていて、経時
    的なものを表わしていたのに、童謡の歌詞では、一番が<いつの日か>、
    二番が<まぼろしか>と逆転してしまった経緯は分からない。三木露風自身
    が関与した変更なので、原詩一番が<山の空>と感覚的なものであったの
    に対し、童謡歌詞一番を<赤とんぼ>と具象的に変えたためかも知れない。
 
(三)
 十五で姐やは嫁にゆき お里のたよりもたえはてた

 
Q5:<十五でねえやは嫁にゆき>は露風が15歳の時、姉さんがお嫁に行った
    ということ?
 
A5:最近は<ねえや>と平仮名だが、原詩は<姐や>となっているのでBGM
    の歌詞表示も<姐や>としている。<姐や>は貧困な家庭から裕福な家
    庭の幼児の子守にくる子守娘のことで、十歳前後の少女だった。貧困家庭
    から年季奉公のように裕福な家庭に来る人を、爺や、婆や、女中、書生、姐
    やなどと呼んだ。従って、<姐や≠姉さん>であるが、<露風十五歳のとき
    姐やが嫁にいった>と言うのは次に挙げる理由で年齢的に合わない。姐や
    が子守り奉公に来るのは早くて十歳(今の小学校の四年生)頃であろう。そ
    の年齢でなくては、その娘の知力・体力の関係で、奉公先も安心して幼児の
    お守りを任せられない。一番の<負われて赤とんぼを見た>露風の年齢は
    物心の付く三歳前後だったと思われ、姐やは十二、三歳ころと想定される。
    つまり十歳前後の開きがあり、露風が十五歳の頃姐やは二十五歳前後とな
    り、嫁にゆくには江戸時代では大年増、当時としても<乳母桜(うばざくら)>
    であろう。従ってここは、露風五歳頃まで三木家に奉公していた姐やが十五
    歳の若さで嫁いでいった、というのが詩として抒情的で妥当であるとおもわ
    れる。
 
Q6:<お里のたよりも>は何処から何処へのたより?
 
A6:当時他家に嫁いでゆくということは、輿入れと呼ばれ、その家及び親姻戚の
    ものとなるということで、乙女として強い関係のあった物事、人々、家々との
    訣別を意味する。実家(お里)ですら冠婚葬祭以外は交信が途絶える時代
    だから、子守娘として奉公していた家に本人から手紙を出すなど余程の事
    情がなければ考えられない。<姐や>の輿入れは、その直前まで三木家
    に子守娘としていたのか、子守り奉公を終えて実家に帰って暫くしてからか
    は判然としないが、本人から話はあったろうし、実家から”も”「娘は嫁に行
    きます。お世話になりました」という便りがあって、それ以来姐や自身や実家
    (お里)からの姐やの消息は三木家にはプツンと途絶えてしまった、というこ
    とが考えられる。但し、童謡「花かげ」の三番には、♪遠いお里のお姉さま私
    は一人になりました♪ という部分があり姉の嫁ぎ先を<お里>としている。
    これは童謡「里の秋」などと同様、実家のみではなく<場所・地方・田舎>の
    意の<お里>であると思われ、これも<お里のたより>=<姐やの消息>
    と解釈するのが妥当だとする所以だ。
 (四)
 夕焼け小焼けの赤とんぼ とまっているよ竿の先

 
Q7:一番の<負われて見た>赤とんぼは竿の先にとまっていた、ということか?
 
A7:この<赤とんぼ>は三木操(露風)32歳の時に『樫の實』に発表した『赤蜻
    蛉』を童謡としたもので、その詩作を考えていた頃露風は、夕焼けの中で竿
    の先にとまっている赤とんぼを見て、幼い頃の夢か現(うつつ)か幻の中で、
    姐やにおんぶされて見た夕空の中の赤とんぼを思い出し、暖かい背中に限
    りない慕情と郷愁を感じてこの詩を書いたのである。子供心に、一番の歌詞
    で歌って、四番の歌詞はその赤とんぼの具体的説明と思っても仕方ないが
    詩から想起するものはガラリと変わる。
      

 「赤とんぼ」の翻訳:
( )内は推定
 
(露風が詩作のため)ぼんやりと夕景色を眺めていたら、赤とんぼが竿の先に止っているのが見えた。夕暮れの赤とんぼといえば、(記憶も定かでない幼少の遠い昔)姐やの暖かい背中におんぶされて見たことがあるような気がするが、あの懐かしい記憶はいつ頃のことだったのだろう。姐やといえば、(もう少し大きくなった頃)小さな籠を持って、手を引かれて桑の実を取りに行った記憶があるが、あれは本当に優しい姐やだったのだろうか。その姐やも(自分が学校へ行くようになってお里に帰り)十五の若さで(遠くに)嫁に行ってしまい、その後消息も分からなくなってしまった。姐やは今頃何処でどうしているのだろうか?

 この詩は赤とんぼのことを詠んだものでなく、作者の遠い日の、姐やに対する恋情に近い淡い心を思い出として詠んだものである。伊藤左千夫の小説『野菊の墓』の「民さんは野菊のような人だ」を彷彿とさせる歌詞である。

       

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