昭和7年(1932年)
JASRAC No.059-0291-6
涙の渡り鳥
作詞:西条八十
作曲:佐々木俊一(倶楽部内曲目
歌唱:小林千代子
制作:滝野細道

(一)
雨の日も風の日も 泣いて暮らす
わたしゃ浮世の 渡り鳥
泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ
泣けば翼も ままならぬ

(二)
あの夢もこの夢も みんなちりじり
わたしゃ涙の 旅の鳥
泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ
泣いて昨日が 来るじゃなし

(三)
懐かしい故郷(ふるさと)の 空は遠い
わたしゃあてない 旅の鳥
泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ
明日も越えましょ あの山を

佐々木俊一(1907年・明治40年〜1957年・昭和32年、福島県浪江町出身)は東洋音楽学校(現:音大)卒業ごバンドでドラムを叩いていましたが、1932年(昭和7年)に、この「涙の渡り鳥」をビクターの西条八十に持ち込んで歌詞を作ってもらいました。歌詞の一番〜三番にある ♪泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ♪ の部分は文法的に見ておかしい、と西条八十は難色を示しましたが、新人ながら是非と頼み込んでそのままになった経緯があります。歌い手も小林千代子を得て、歌は大ヒットしました。続いてだした「島の娘」も大ヒットし、ビクターの寵児となったのです。以後は主として佐伯孝夫とコンビを組んで戦後もヒットを飛ばし続けましたが、歌謡曲の黄金時代(美空ひばり、島倉千代子、三橋美智也、春日八郎など)の真っ只中の昭和32年に49歳で早世しました。当時ビクターには前出の超大物歌手がおらず、彼らの歌は残っていません。
佐々木俊一の曲の特徴は、歌詞の内容が湿っぽくても暗くても、ビートの利いた軽快なリズムに乗ったものが多いことです。とくに「高原の駅よさようなら」は、涙の別れを表したものですが、メジャーの明るい名曲となっています。これは佐々木俊一がドラム出身の作曲家であったことと無縁ではないでしょう。
佐々木俊一の主な作曲は下掲以外に「野球小僧」、「お俊恋唄」などがあります。
童謡・唱歌 懐かしのメロディー 八洲秀章&抒情歌 昭和戦後の歌謡曲・演歌 *2008/NOV/16

佐々木俊一当倶楽部の作曲曲
曲名 作詞 歌  手 歌い出し
ああ高原を馬車が行く  上山雅輔 小畑  実  朝霧なびく高原をたてがみ揺れて
赤い灯青い灯 佐伯孝夫 徳山  l 赤い夕陽の街から街へ
明日はお立ちか 佐伯孝夫 小唄勝太郎 明日はお立ちかお名残り惜しや
あなたなしでは 佐伯孝夫 能勢妙子 宵にゃ散歩に出たけれど
雨の酒場 佐伯孝夫 灰田勝彦 忘れらりょうかあきらめらりょうか
アルプスの牧場 佐伯孝夫 灰田勝彦 雲が行く雲が行くアルプスの牧場
燦めく星座 佐伯孝夫 灰田勝彦 男純情の愛の星の色
高原の駅よさようなら 佐伯孝夫 小畑 稔 しばし別れの夜汽車の窓よ
桑港のチャイナタウン 佐伯孝夫 渡辺はま子 桑港のチャイナタウン夜霧に
島の娘 長田幹彦 小唄勝太郎 ハー島で育てば娘十六恋心
新雪 佐伯孝夫 灰田勝彦 紫けむる新雪の峰ふり仰ぐ
月よりの使者 佐伯孝夫 竹山逸郎 白樺ゆれる高原にりんどう咲いて
東京よさようなら 佐々木俊一 灰田勝彦 恋の東京さようならまたの逢う日
長崎物語 梅木三郎 由利あけみ 赤い花なら曼珠沙華阿蘭陀屋敷
涙の渡り鳥 西条八十 小林千代子 雨の日も風の日も泣いて暮らす
火の鳥  佐伯孝夫  渡辺はま子  水にネオンの花が散るなびく柳も 
僕の青春(はる) 佐伯孝夫 藤山一郎 恋は楽しや街に空には憧れが
無情の夢 佐伯孝夫 児玉好雄 あきらめましょと別れてみたが