手厚き看護
中澤家のあります大草村は、南北に長い伊那谷の中央にして天竜川の東岸に位置し、館は暴れ天竜に臨む峻険な崖上にありまするところから、「昇竜館」と呼ばれておりました。健康酒発祥の地となりましたこの要害は、攻むるに難く守るに易い当時のままに今も残っております。後の世に、当中澤家から中沢臨川という高名な文人も出ておりますが、その号も<天竜川に臨む>というところから取ったのでございましょう。また、中澤家はもともと清和源氏の流れをくむ松岡氏の末裔で、戦国時代には武田、村上、諏訪、小笠原と、勢力争いの度に支配が代わりましたが、この大草の地を守って一歩も動かぬ郷士でありましたことから、御館様と尊称されて参りました。豊太閤の治世となりまして帰農し、やっと落ち着いたのでございます。 伊那谷を南北にはしっております主街道といえば東山道(トウサンドウ)。この道は、古くは日本武尊、坂上田村麻呂が東征の折に、また、戦国時代の当時では武田信玄を始め多くの武将の軍勢が天下に夢を馳せ、近代になりますと水戸の天狗党、相楽総三などが尊皇攘夷を掲げて押し通り、一つの時代が変わる毎に登場した街道であります。この東山道は天竜川の西岸にあり、それなりに宿場町も栄えておりましたが、駒ヶ岳、空木岳といった勇峻な峰々を超えた西の反対側には俗に言う木曽街道、つまり中山道がございまして、東山道はいはばその裏街道。 木曽の谷と伊那の谷を比べて見ますると伊那の方が遙かに広い。かの島崎藤村の小説[夜明け前]にも「木曽路はすべて山の中である」、という有名な一節が有りますように、木曽路は奈良井宿から馬籠宿まで全て狭隘な山路が続きます。また、浦島太郎伝説もあります上松臨川寺境内の正岡子規歌碑にも "白雲や青葉若葉の三十里"
と謌われておりますとおり、誠に緑豊かな空あくまで碧い街道でございます。 一方、伊那路は木曽の山々から赤石の山々まで、天竜川の造りました河岸段丘も入れますと、広いところでは差し渡し三里ほどもある所があり、高山の頂が遙か霞の彼方に消えてしまう山並みもあるくらいでございます。必然、人々の営みは伊那の谷の方が活発で、伊那節にも、♪木曽へ木曽へと付け出す米は、伊那や高遠の、伊那や高遠の余り米♪、なんぞと吟われているくらいで・・・。とは申しましても、こと街道の賑わいともなりますと、中山道は木曽の御用林を中心とした本街道でございますので、東山道の賑わいなどは、遠く及ぶべくもございません。 その東山道からすら一里余も外れたところにありました大草村ですから、天正十年から文禄二年にかけて行われました豊太閤の検地・刀狩りの治世以後、この地で見知らぬ顔に出くわすことなど殆どごさいませんでした。しかも、この人里離れた山道を、この時刻この雪のなかを見知らぬ旅人が歩いていたというのも、訳あってのこととは思われますものの、まことに奇態な話ではありませんか。 ここでひとつ、この当時の主な出来事を時代別に述べさせて頂きますと、室町幕府の終焉となりました、細川勝元と山名宗全が天下を掛けて争った世に申しますところの応仁の乱、以後の麻の如く乱れました戦国時代を豊臣秀吉公が平定致し、天下統一の最後の仕上げを致しました小田原征伐が、天正十八年(西暦1590年)のことでございます。小田原攻めを仕上げまして安心をしました秀吉公、関白の位を秀次公に譲って太閤と成りましたのが、翌年の天正十九年。太閤と成りました秀吉公、国内に怖いものは無くなりまして、明を攻略すべく、加藤清正、小西行長らを先頭に、朝鮮に派兵致しましたのが文禄元年(1592)。これが世に言う文禄の役でございます。慶長三年(1598)、再び朝鮮に派兵し、この慶長の役半ばにして秀吉公は没します。そして、太閤没後二年にして天下は石田三成公と徳川家康公に勢力が二分され、慶長五年天下分け目の関が原に家康公が勝利致しまして徳川の天下となり、慶長八年(1603)には江戸幕府が開闢いたしております。この物語は、慶長四年から慶長七年が中心となっております。
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閑話休題 昇竜館では、松吉の知らせによりまして、奥座敷に火鉢をいくつも運び込んで暖め、一つの火鉢の上では神輿草(ゲンノショウコ)、しぶき(ドクダミ)、おんばこ(オオバコ)、防風、黒文字などを煎じ釜で煮立てておりました。 旅人が部屋に運び込まれますと、待ち受けていた下女達が濡れた着物を乾いた物に替え、それぞれ鉤樟油を手に、旅人の手足の薄紫に変色しかかっているところにせっせと塗りはじめました。油を塗った上に、湯を絞りしぶき(ドクダミ)の葉を溶いたものを塗布した手拭いを巻付け巻付け、それを取り替えて手足を擦り、また油を塗ってと、懸命に看病をつづけたのでございます。 宗寛翁も旅人の枕頭に座って心配げに顔を覗き込んでおりましたが、旅人はいつかな目を開きません。現代のようにカンフル剤だ点滴だ病理学検査だというわけにも参りません当時のこと、意識が戻りませんと薬湯すら飲ませるわけにも参らず、ただ旅人の命の力が衰弱した身体を持ち直すのを待つだけとなります。しかし、昏睡状態は相変わらず続いているようではございましたが、顔は心なしか赤みを帯びてまいりまして、血の脈も幾分か強くなった気配。 「薬湯を冷まして、少しあげてみるがよい」 宗寛翁に促されて松吉が、冷ました薬湯を盃で、旅人の寒さにひび割れた唇に少しずつ注ぎ込もうとしましたが、薬液は頬を伝わり一筋の糸となって枕を濡らすばかり。口の中に入って行きません。それでも、意識は無くても身体が水分を欲しますものか、唇が動いて口唇を湿らす程度の薬湯は入りましたようでございますが、それだけではどうなるものでもございません。 「口移しにあげて見なさい」 松吉、途端に後ずさり致しまして、「ヘッ、ご勘弁下せえまし。わっちにはそのようなことは、へい」と、しどろもどろ。 当時も念友、いわゆる<おホモ達>は多く、戦場では男色が大流行りでしたし、稚児と言うのはそもそもその方面の言葉でございまして、むしろ現代より一般的であったとすらいわれております。しかし、如何に一般的とはいえ、禁断の所業であることに変わりはなく、松吉もその辺のところを慮って申したのでありましょう。ましてや、南蛮夷狄の人々のように、日常的に唇を交わす習慣など当時の日の本には全く無く、口は肛門とともに不浄の最たるものと思われていたとする文献もあります。 実は一説に、[口吸い]と称して、愛の所作としての接吻を始めたのは、誰あろう、秀吉公であった、と主張する人もいるくらいで、このことは、口移しが如何に禁断の所作であったかを物語るものでもございます。「何じゃ、ではお妙、そなたがやってみりゃ」 「怪我に巧妙あり3」につづく
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