NET講談

怪我に巧妙あり

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  旅の本草学者の正体
 
 
「主名の儀はお許し願いたい」、との断り付きで旅人が語りました物語は・・・
 旅の老人、林平九郎信行改め林白仙は、さる奥州の雄藩の藩士でございまして、もともとは藩中では物頭の家系で御納戸頭などを致しておりましたようで。しかし、部屋住みの頃より本草に興味を抱きまして、藩の典医の所に入り浸ったり、暇があれば野山に出掛けて薬草の採取と、藩内でも変わり者の噂が立っておりました。四十五歳を過ぎて、普通ならお役御免、隠居の身となる年齢となりましたころ、藩主が秀吉公の小田原征伐に加わりまして、平九郎も帯同致すこととなりました。小田原では北条氏政・氏直父子の抵抗が激しく、包囲戦も殊の外長引きまして、傷病者続出とは相成りました。平九郎も始めは藩公の馬回りを勤めておりましたが、施薬方(今で言う救護班)の人手が足りず、従来より本草に造詣が深いとの噂と、年の功によりそちらに回されましたのが、やっと、本草学者としての第一歩となったのでございます。
 陣営には太閤様(以前にも触れましたように、当時はまだ摂政関白太政大臣豊臣秀吉でございまして、いわゆる太閤となりますのは天正十九年に関白職を秀次に禅譲して以後のことでございますが・・・)お抱えのご典医、本草学者が沢山おりまして、平九郎にとりましては正に、渡りに船。様々な人に師事するうちに、本当に水が合ったとでも申しましょうか、めきめきと頭角を現しまして、いつの間にか戦陣にありましてはなくてはならぬ典医・本草学者となっておりました。ある時は、秀吉公の脈を取ったほどでございます。
 秀吉公のお声掛かりとなりましてからは藩公の覚えもめでたく、天正十八年(1590年)に小田原攻めが北条氏政の自刃、氏直の高野山に閉居で終わった後も、修業のため聚楽第に上ることを許され、高名な本草学者と交わりまして、主君に遅れること二年にして文禄元年の師走、帰郷致したそうにございます。
 「帰郷の折は、主君もいたく歓迎いたしくれましてな」
 「いやあ、田舎のこととは申せ、そのような故ある御方とは心得ませず、誠に失礼をば致しました」
 「いやいや、そのように仰られては却って痛み入ります」
 「いやいやいや、井の中の蛙とは、まさにこのこと。薬草にはいささか自負を持っておりました自分が恥ずかしゅうござりますな」
 「いやいやいやいや、ご謙遜めさるな。独学でよくこそここまで修められたものよ。宗寛殿こそ、誠に誠に敬服に値しまするぞ」
 「いやいや・・・・・・・」と・・・。
 講談特有の掛け合い譲り合いはさておきこの白仙殿、帰郷致してからも研鑽を積み、奥州地方には並ぶ者なき本草学者となり、名前もあまねく天下に知られるようになりました。慶長二年になりますと第二次朝鮮出兵、いわゆる慶長の役が起こりましたが、文禄の役当時のようにうまく攻略が出来ません。失意のどん底にありました豊太閤の病は篤く、白仙殿にも大阪(逢坂)の師から声が掛かり、これに藩公の命令もありまして、再び上洛致しました。そこにはまた、以前とは違った奇妙な活況があり、新しい薬草、医術、療法、祈祷などがみな太閤様のために飛び交っておりました。
 「何しろ太閤殿下は砒素のたぐいの物まで試されましたからな」
 「砒素、でござるか。石見銀山の砒石から採りますあの鼠取りの」
 「左様、良いと言われるものは何でもお服みになられましたな。今をときめく石田治部少輔様も、大野修理大夫様も元をたださば、お茶坊主やお毒味役だったわけですから、特に修理大夫様などはよくこそご存命だ、などと噂されたくらいで」
 そこで見ましたものが、徐福のものと言われます曰く付きの木簡。そこには墨痕淋漓薬草と思わせる名前が数種類記してありました。[徐福]とは、すなわち、永遠の生命を入手せんとした秦の始皇帝が、東海の神山にありと言われた不老長寿の秘薬を求めて派遣した、当時から見ましても1800年も前、西暦で言いますところの B.C.200年頃の人物であります。この時代は項羽や劉邦が打倒<秦>を目指して立ち上がりまして、劉邦は結局400年に亘る漢王朝を開いたのでございますが、この漢王朝が滅亡するときに現れましたのが魏呉蜀の<三国志>でありまして、この蜀の劉備元徳が、と、と、・・・また脱線をして失礼を・・・つまりこの三国時代の魏の名医華陀よりも400年も前の人物の残した木簡が以後1800年を超えて墨痕淋漓であろうはずがない、と直ぐに気がつきますが、そこが講談。なにしろ幻術使いや猿飛佐助などが跳梁跋扈致しました時代のこと、何の疑いもなく信じられておりましたようで・・・。疑わしき木簡ではありましたが、内容は極く真面目なもので、神薬益母草、淫羊カクとその他数種の薬草の組合せが記してありました。しかし、木簡と言うものは、ご存じのように木の短冊を紐で繋ぎ合わせた様な物ですから、紐が切れたらそれでお終い。淫羊カク、益母草が神薬であるとは書いてありましたが、その他の薬草との配合を書いた物が散逸してしまっておりました。
 そもそも漢方薬というものは、先に宗寛翁が苦心致しましたように、生薬の配合が一番大切でございまして、単味の生薬がいくら優れていても、それだけでは何にもなりません。或る生薬と組み合わせないと毒になる物もあるくらいでございますから、安全、目的とする効能、飲み易さなどを目指して、その配合処方は天文学的・・・これはちょっと言いすぎでございましょうが、長い経験則により形作られるものなのでございましょうな。
 本草学者の間でも、この木簡の信憑性については議論が真っ二つに分かれました。林白仙は<何かある派>に属しておりまして、この一派は淫羊カク、益母草の姿を求めて東奔西走、やっと朝鮮より渡来致しました書物のなかに淫羊カク、明の交易船から益母草の姿を知ることが出来ました。これに勢いづいた<何かある派>は、この二つの薬草を求めて畿内を探し、とうとう淫羊カクは紀伊の山中に自生している物を、益母草は明智日向守光秀の居城でありました亀岡城の脇で見つけましたが、この二つを煎じて服用させても、先の木簡や書物に記載されていたほどの効果がでません。勿論、一番の目的であります豊太閤に献じますために、他の薬草と配合の面でいろいろと工夫してみましたが、可もなく不可もなしといったところに終始しました。
 慶長三年に豊太閤が薬石の効なく崩御され、林白仙も故郷に帰ることとなりました。
 帰郷の途上、先の淫羊カク、益母草の自生地を調べ、品質や他の薬草との配合を確かめながらの旅となることを藩公に願い出まして、先ず畿内を巡りましたのち、若狭、越前、加賀、越中と抜け飛騨から美濃、三河に入って天竜川を遡り、小笠原飯田藩の城下から竜東沿いに高遠に抜ける途中に、行き倒れてしまったものでございます。
 大阪を出ましてから半年余が過ぎておりました。
 「怪我に巧妙あり9」につづく

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