NET講談

怪我に巧妙あり

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 怪我に巧妙あり(2)

 気がついた二人は喧嘩も忘れて青ざめ、取っ組み合ったまま立ち尽くしてしまいました。
 「お前さん、どうしよう」 覚えず<あんた>が<お前さん>になっています。
 「どうしようったって、お前」
  二人はオロオロするばかりでございます。それはそうでしょう。御館様と林白仙という旅の本草学者が、丹精込めて仕込んだ薬草酒の甕に、灰がたっぷり詰まった火鉢が転がり込んで仕舞ったのですから、青くなるのも当然です。単に、いくつもある甕の一つというのではなく、色々な薬草や原酒の量などを組み合わせ記録したものの一つですので、この組み合わせはこの甕だけ、というものなのでございます。しかも、何ヵ月も前に仕込んだものを・・・
 「とにかく見てみようよ、お前さん。ほら、途中にこんなに灰が撒き散らされてるし・・・もしかして・・・」
 悋気が強い勝気なお民さんのほうが、多少気丈であったようで、気を取り直して松吉さんを促しました。もしかしたら手焙りの灰は途中でほとんど撒き散らされてしまったのではないか、と。幸い、と言ったら語弊がありますが、松吉さんとお民さんの壮絶な夫婦喧嘩も離れた長屋の住人には気取られなかったようですし、甕の辺りにも人影は見えませんでした。しかし・・・
 「あ〜〜っ!」
 「ゲッ!」
 二人の儚い期待は見事に裏切られ、甕の中の液体は薄黒く濁って見る影もありません。色の濃い薬草と白濁酒の混ざり合った色のほうがまだしも、であります。到底責任を免れる事態でないことは一目瞭然でした。
  二人は丸一日を悶々として過ごし、とうとう御館様に打ち明けることと致しました。二人がオズオズと御館に目通り願いますと、
 「何じゃ?二人して。ああ、新田のお艶がことかの?あれは良くお艶に言って聞かせて・・・」
 「いえいえ、左様ではござりませぬ。じ、実は・・・実は・・・」
 松吉さんは口ごもってしまって、中々話の埒が開きません。この時も女房のお民さんの方が実行力を発揮しまして、「実は昨日・・・」と打ち明けました。
 「な、何じゃと、甕に火鉢の灰が?・・・」
  さすがの宗寛翁も絶句してしまいました。二人は膝頭を揃えてただただ小さくなるばかり。
 「とにかく見てみようぞ。どの甕じゃ、案内(アナイ)せえ」
  白仙老を呼びにやり、二人の案内でくだんの甕の所に駆けつけました。蓋は夫婦の手でその所業が見つからないように、キチンと締まっております。宗寛翁、自ら蓋を開けて覗き込みました。
 「な、何と!これは、どうしたことじゃ!」
 二人は雷でも落ちたように首をすくめ、逃げ出す構え。
 白仙老は、宗寛翁の後から覗き込み、これも、「何と、何と・・・」と絶句してしまいました。
  薬草を仕込んだ白濁している筈の仕込酒が、透明な水のように澄みきって、朝の光の中に輝いているではありませんか。
 「これは、どうしたことじゃ!」
  宗寛翁は覚えず同じことを口走り、まじまじと水面を見つめました。白仙老を始め物音を聞きつけて集まった者たちも固唾を呑んで見守っております。正に清酒の誕生の瞬間でしたが、宗寛翁にはそのようなことは分かりません。手で掬ってみますと、琥珀色の液体がトロリと掌(タナゴコロ)を伝って落ちます。手のひらを舐めてみますると、酒や薬草の味や匂いが微かに残っております。何のことやら訳が分からないなりに、火鉢の灰が何らかの作用を及ぼして濁りを消したのだ、とは悟るに至りました。
 「これ、松吉、お民!」
 「ヘッ、お許しを」、「御館さま、どうかご勘弁なすって!」
 地べたにヘナヘナと座り込んでいた夫婦は、這って逃げようとします。
 「いや待て、そうでない、でかした、でかした!」
 「エッ、でかした、と仰いますか?」、「何でござります?」
 「甕の中の濁りが消えておるのじゃ!そちたちが入れた灰で濁りが消えたのじゃ!」
 「わ、わたくしめが放り込んだ手焙りが、お、お役に立ちましたので?」
 「うむ、いかさま、夫婦喧嘩をして挙句に甕に灰を入れたこと、一日もの間報告をせなんだことは褒められたことではないが、これはまさしく怪我の功名じゃ。特に、昨日、灰が入って直ぐ見たら薄黒く濁ってとても見られたものでなかった、と申したな? その時直ぐに見ていればこのように透き通った薬酒を見ることはなかったのじゃ。そのほうらを叱って終わったであろう。そのほうらが、一日申し出を迷ったゆえ、このように澄んだものが出来上る時が稼げたのじゃな。これを怪我の功名と言わずして何と言をうぞ。天晴れじゃ」
 「ヘエ、では、ご勘弁頂けますので。有難う御座ります」
  夫婦喧嘩は犬も喰わない、と申しますが、夫婦喧嘩が蘇命酒創始の切っ掛けを作ったのでございました。 どぶろくの白濁は灰汁(アク)であります。灰は灰汁を吸着し、自ら底に沈みます。ですから掻き回せばまた白濁致しますが、暫くしますとまた沈殿して清澄な液に戻ります。薬草の成分は熟成致しまして溶け込んでおりますので、上澄みを取りましても、その上澄みの中に残るのでございます。かくして、まずは、薬草酒の色の方は解決したのでございます。
「怪我に巧妙あり12」につづく

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