NET講談

怪我に巧妙あり

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謎が謎呼ぶ

                                    
 「そうじゃ、オタネが薬草の事であったなれば、インヨウカクも薬草の事であろうか。如何かな?  旅のお方?」
  今度こそ旅人は何度も何度も頷いて同意を示しております。果して薬草の名前であったのでしょう。しかし、翁も道庵先生もインヨウカクなんぞという薬草など、見たことも聞いたこともありません。しかも、時は大雪の季節であります。
  中国の古代、戦国時代と申しますから今から二千五、六百年も前になりましょうか、その時代に、孟子と言う偉い方がおりまして、そのお母さん、孟母がまたもっと偉いお方で、環境が幼な子の孟子に悪いといって三遷したくらいの人でございます。この孟母も病に臥せりましてさすがに気が弱くなりましたものか、ある真冬のこと「竹の子が食べたい」などと無理を申します。真冬に筍なんぞあるものじゃあございません。しかし、後に性善説を唱えて世に出ました親孝行な孟子のこと、裸足で竹藪を馳せ巡り、雪を手で掻き分け掻き分け捜し回りました。当然のことながら筍はおろか、つちのこすら見つかりませんから、幼い孟子、病床の母の望みが叶えられず、思わずハラリと涙を落としました。こういう時に決まって登場致しますのが、いうところの神様。この時は儒教の神様が幼い孟子を憐れとおぼしめして、雪中に一本の筍を与えました。  仏教の薬師如来様はどうでしょうか? 
 
と言う戯れ言はさておき、この雪の季節に見知らぬ薬草。孟子ならぬ中澤宗寛翁もほとほと困じ果てて仕舞いました。道庵先生のほうは半兵衛を決め込んで、茣蓙の縁などを毟って居ります。
  ここで読者、お客さまは、「何で筆談をしないのだ」と思ってイライラしている方もあるでしょうが、講談師はちゃーんと理由を用意しておりまして、ま、何の事はない、口もまともに利けない人に筆を持つ力が有ろう筈がない、ましてや手足は今で言います凍傷にかかって治っていない、と言うだけのことでございます。
  また、次のように言う人があるかも知れません。「中澤宗寛ともあろう人が神農本草経や本草綱目といった漢書を読んでいないはずがない。読んでいれば<いんようかく>など即座に分かるはずである」と。本草綱目は時代的には丁度出版されている頃ではありますが、このような田舎に来るにはまだまだ先のこと。神農本草経は中国最古の薬物書で漢代には木簡で造られていた原本が散逸し、陶弘景により増補・編集された「改訂版神農本草経」が流布する事となりました。この復刻版は当時田舎にも及んでおり、宗寛翁も見ていたようであります。神農本草経には<上薬養命>と言う言葉がございまして、かの「養命酒」はそれから採ったという説があるくらいで・・・
  ただ、神農本草経の薬草名はもちろん中国語。伊那谷に自生しているその地方の野草と結び付けるのは宗寛翁ならずとも相当に困難だったことでしょう。
 と、またもや旅人が懸命の息で話すに、「や・く・も・そ・う」と。
 再び目覚めたように道庵先生。たちまちのうちに医者の顔に戻りまして、
 「やっ、今度は[やくもそう]と聞こえましたぞ。[やく]に[そう]とはいかにも薬草のようでございますな。いかがかな、旅のお方?」
 道庵先生の問い掛けに、旅人はまた、懸命に頷く様子を示します。またまた、道庵先生のクリーンヒットではありますが、宗寛翁にとりましてはまた一つ新たな謎が加わってしまったわけで、覚えず呻き声が出ました。謎が謎を呼んでおりますな。
 「うーむ・・・なんと[いんようかく]に[やくもそう]とな。それがどうじゃと言うのかのう」
  いんようかく、やくもそう、の真の意味を中沢宗寛翁や本多道庵先生に伝えることは出来ませんでしたが、言葉だけでも伝えられて安心をしたものか、旅人は宗寛翁処方の薬湯を、中澤家の人びとの言うがままに飲みはじめました。重湯も少量ながら摂れるようになりましたので、二日に一度片桐宿から通ってくる道庵先生も愁眉を開いた所ですが、病人の状態は一進一退でございまして、雪中より救助されて以来半月ほど経ちました今も、あまり捗々しくはございません。処方の薬湯では精気と言うものに対する何かが足りない。
  案じました宗寛翁、病人には多少きついかとも思いましたが、薬湯に使用しております薬草類を三年間ほど酒に浸し、充分に熟成させて造った秘蔵の「薬酒」を飲ませて見ようと思い立ちました。当時の酒と言えば[どぶろく(濁り酒)]のこと。映画やお芝居なんぞで、戦国武将が清酒を酌み交わして居る場面を見まするが、これが真っ赤な嘘。酒から濁りが消えたのは元禄の頃のことでございます。基本的に、青い葉、葉緑素の残存致しましたものは黒く変じます。良く乾燥させて用いましても、中々に色はとれません。これが白濁した酒の中に抽出される訳ですから、灰色の少し気味の悪い液体となります。中国の場合は、三国志の時代に活躍した華陀の頃より蒸留技術が発達しておりまして、老酒なんぞを薬酒の原酒としていたらしゅうございます。魏の曹操と名医華陀の話しをしないで先へ進みますのは、講釈師にとりまして拷問に等しい斯業でございますが、ここでは涙を呑んで割愛することと致しましょう。
 「私が考案しました薬草の酒ですが、些かなりともお飲みになってみませぬか?  入っております薬草は今差し上げております薬湯と同じものにござれば・・・」
 その、南洋で申しますカヴァ(痺れ酒)のように灰色の薬酒を旅人に進めてみますると、当然拒否致しますものと思いきや、旅老人は最初、驚愕の目を見張り、覚束ない手で押しいただくように飲むではありませんか。これには宗寛翁も、意外に思いますと同時に、自分の創案した薬酒が受け入れられまして大変嬉しくも思いました。嬉しい中にも、翁の心に、このような気味の悪い薬酒を何の躊躇もなく飲んでしまう件の旅人は、一体どういう素性の人物なのであろうか、という懸案の疑惑が改めて沸き上がって参りました。こころなしか、薬草関係には造詣が深そうな人物とも見受けられるではありませんか。
 謎は深まるばかりでございます。   
 「怪我に巧妙あり6」につづく

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