NET講談

怪我に巧妙あり

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  ついに新薬湯、完成

  それに致しましても、淫羊〓とはまた凄い名前ですな。羊を淫らにする葉っぱ、と言うんでございますからね。元々、羊や山羊というのは助平な動物と言うことになっておりまして、繁殖力も強い。それを淫らにするってんですから、余程、強精強壮効果を持った薬草なんでございましょう。本場中国では、日本の<秋茄子を嫁に食わすな>式に「淫羊〓酒を造るところを嫁に見られるな」なーんてことを申しますようで、精力といいますのはもともと気力体力の源でございますからな。因みに私も未歳でございますが、気力体力は人に遅れをとるようなことはありませんが、頭の中身の方が多少お留守気味でしてな、・・・ま、異事(アダシゴト)はさておき、和名のイカリ草とは、そもそも小バクと言う生薬を採取しますところの目木と同類の多年草でございまして、桜の咲きますころ、相前後して船の碇に似た花を付けます所から碇草。たしかにイカリソウの花は船の碇に似てはおりますが、これは現在の話でございまして、この時代にこのような碇を付けた船と言えば御朱印船くらいなものでして・・・、あとはほとんど舫い船ですので、果してこの山奥の地方の野草にこのような名前が付きましたものかどうか・・・。記録にございません。他の薬草に付きましても、残っておりますのは神農本草経や本草綱目などの漢方書に由来する生薬名ばかりでございまして、この地方でこの時代にどの様な俗称で呼ばれていたものか、残念ながら分かって居りません。しかし、そこが講談の便利なところ。当時を見てきたように、平気で現代でも通じます名前を会話の中に使用しております。
  ま、当時の名前がスキモノ草でも何でも構いませんが、「されば、あのスキモノ草こそ[いんようかく]!」、と、いかに<見てきたような嘘を言う>講釈師でも、宗寛翁に叫ばせるわけにもいきませんので。
 旅人の意を体しまして、中沢家の人びとは枯れ野、雪山を探索し、とうとう作男の宗助が根からイカリ草を掘り起こして参りました。これを旅老人に確認致しますというともう間違いないと言う仕種。ここで宗寛翁としましては、旅人の真意は確とは分かりかねましたものの[いんようかく]と[やくもそう]を使った薬湯を造ることは決めておりました。そうなりますと後は[いんようかく]の量を集めますことと、[やくもそう]を確認するのみでございます。[いんようかく]については最初からイカリ草という手掛かりがありました故、まだよろしかったのですが、[やくもそう]は全く手掛かりなどなく、闇夜の鉄砲よろしく採取しては見せ、採取しては確認し、という具合。なかなか要領を得ませんでした。
  [やくもそう]の発見を待ちきれなくなった宗寛翁、今までの自分の処方による薬湯にそのままイカリ草を加えて煎じ出して見ましたところ、一段と苦みが増しましてとても飲めたものではございません。仕方なく、千振を抜いたり、甘茶蔓の甘味を加えたりと、いろいろ工夫してみましても一向に改善せず、飲み口は良くなりません。宗寛翁の処方のものは、苦いとはいえ飲めたわけですから、これはイカリ草のせいとしか言いようがございません。これが配合の妙と申すものなのでございましょう。
  とかくするうち、難航しておりました[やくもそう]も、とうとう、これもこの地方で言う「目弾き(メハジキ)」のことと判明致しました。目弾きは紫蘇に似た草で、通常は婦人薬として、補精、利尿、眼病に利用され、生薬名は[益母草・やくもそう]と呼ばれております。目弾きと言いますところから、当時から眼病にも良いと思われていたのでありましょう。
  宗寛翁は、自分の元の処方に淫羊〓のみを加えたものでいろいろ工夫を重ねておりましたので、今度は淫羊〓に益母草を加えて順番に試してみました。その中で、千振とオンバコを除き甘茶蔓を加えましたものが、淫羊〓のみの時はとても飲めなかったにも拘らず、益母草を加えたことにより不思議と飲めるようになったではありませんか!
  配合の妙に改めて驚きました宗寛翁、その配合で更に工夫を加えまして、その一番煎じのみを旅人に一日三回与えました。すると、こは如何に。今まで一進一退だった旅老人の様子が、まるで命の薄皮を一枚一枚着せて行くように、回復してくるさまが、まざまざと見えるようではありませんか。

  一日目は、灰色の渋紙同然だった顔に、ほんのりと赤みが差しました。
  二日目は、血の脈がハッキリしてまいりまして、脈を取った道庵先生もびっくりしたくらいでございます。
  三日目には、目の焦点が合うようになりまりて、生気が蘇って参りました様子。正に目弾きの効用でしょうか。
  四日目は、手足の色も回復致して参りました。
  五日目になりますと、食欲も出てまいりましたようで、粥を食し、布団の上に起き上がれるまでになりました。
  話をしたり、文字を書いたり、立って歩くまでには多少時日を要しましたが、一昨日より昨日、昨日より今日、今日より明日、と段々に回復して行く様子は、是れ恰も、薬湯が旅老人の命を蘇らせているように見えましたので、宗寛翁はその処方に「蘇命湯」(そめいたう)と名付けたのでございました。
  行き倒れの旅老人は、二ヵ月ほどのうちにすっかり回復を致しました。既に桜花の季節は過ぎ去り、卯月の空に刷毛でさっと掃いたような雲が浮かんで、雲路に沿うて鳶が一羽ゆらりと弧を描いておりました。
 「怪我に巧妙あり8」につづく

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