NET講談

怪我に巧妙あり

飯田春介著

このNET講談は、ある薬酒の公表された成り立ちをヒントにし、伝聞と取材によっておりますが、物語は細部に至るまで全て筆者の創作によるものです。当該薬酒の史実や事実には何の関係もありませんし、貶めたり推奨したり等、何の意図も持ちません。
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雪の夜道の行き倒れ

時は慶長四年冬、と申しましても年の暮れではなく睦月(一月)のことでございます。西暦で申しますと1599年の初春。豊太閤の治世も終わりを告げまして半年後、いっとき小康状態を保っておりました天下も漸く風雲急を告げはじめ、慶長五年九月十五日の関が原の戦いに向けて再び動乱の機運も高まって参りました、慶長四年の始めのことでございます。
信濃の国は伊那の谷、大草村の大庄屋中澤幸右衛門宗親(ムネチカ)、隠居して暇人となって号するに宗寛(ソウカン)。その夜は葛島村の庄屋片桐総右衛門殿の葬儀がありまして、夜更けに一山越えて帰宅の途中のことでございました。出掛ける時から降りだしました雪は暮六つを過ぎてもなお止まず、今はもう一尺五寸程も積もっております。時は一月半ばの亥の刻の頃合い。閏の旧暦一月半ばと言えば、今で言う2月の上旬から下旬の頃に相当致しますが、この地方ではまだまだ最も寒さの厳しい季節でございます。
 世に、三月桜の頃とは申しますが、これは旧暦のことでございます。現在は暖冬となって参りまして桜の開花も早くなりましたが、未だに3月中に満開となりますのはごく一部の地域に限られております。旧暦弥生の朔日は、閏月が入りました次の年は4月も半ば頃となる年がありますようで、何かと難しいことではございますが、その旧暦の一月半ば。
 峠を越えて少し大草に下ったころあいでございましたろうか、先導してかんじきで道を作っていた供の松吉が、遠くで呼ばわるに、
 「御館さま!御館さま! 何やら人が行き倒れております様子にござります」
 「何? 人が? 倒れておると?」
 「はじめは熊かと見て驚きましたが、この季節にござりますれば」
 今も昔も熊は冬眠と決まっております。
 しかし、最近この説に異論を唱える人が出て参りまして、あれは冬眠じゃない、仮眠だ、と。単に冬の寒さと動きにくさを嫌がって出てこないだけであって、体温が下がって活動出来なくなる蛇やカエルとは違う、なんぞと申しましてな。あっ、脱線を・・・
 「埒もないことを申すな。して、どの様なかたじゃ? 近隣の者か? 生きておるのか?」
 「土手の下に転げ落ちておりますので、しかとは分かりませぬ。私め、降りてみます」
 宗寛翁が提灯持ちの伊之助と櫃担ぎの六蔵と共に、松吉の作った雪道を急いで駆けつけて見ますると、雪明かりに遠く夜目にも黒く、雪に半ば埋もれて何やらの塊。傍らには松吉が屈み込んで息を確かめております。伊之助の差し出します提灯に、
 「雪の明かりとは申しましてもなかなか・・・へえ、この辺りでは見ませぬお顔で。辛うじて息はござりまするが、何分にもこの桑の切り株で胸を強く打ちました様子にて、出血も酷く、気も失うております。早く手当を致しませぬと、凍え死にしてしまいますで」
 「うーん、この夜更けに如何したものかの。・・・そうじゃ、松吉、お前は自分の帯を解いてそのかたにたすきに回して、背中の結び目には伊之助と六蔵の帯を結びなさい。わしはこの二本の帯をそちらに垂らすから、しっかり結んで皆で引き上げようぞ」
 宗寛翁は供の者三名を連れ、隣村の名主の葬儀に参列いたしましたのですから、正装しておりましたし、帯も博多の献上を締めておりました。これは独鈷の紋様の入った博多織の帯のことでございまして、黒田公が江戸幕府に献上したことからそう呼ばれるようになりました。従いまして、此の物語より少し後の博多織の極上品の呼称でございます。講談はそんなことにはお構いなく、どんどん使ってしまいますが、その博多の献上を惜しげもなく解きまして、一方を土手下に投げました。伊之助と六蔵も土手下に滑り降りまして、力を合わせて帯を結び付け、やっとのことで旅人を土手の上に引き上げたのでございます。
 「もし、旅のおかた、もし、確りしなされ」
 宗寛が旅人の肩を揺すり、問いを掛けてもいつかな目を開きません。脈を取ってみますると、これが如何にもか細い。
 「これはいかぬ。心の臓がかなり弱っておいでじゃ。松吉、お前は早く館へ帰って、部屋を暖め、湯を沸かし、寝床を整え、例の薬湯を煎じさせておくよう算段しなさい。わしらもこの方を早く運ぼうほどに」
 宗寛翁は宗親を名乗っていたときから近隣の薬草のことに詳しく、正式に本草学を学んだことこそございませんでしたものの、民間の伝承に自分の工夫を重ね、薬湯や薬酒を作っては在郷の人びとに配り、感謝されておりました。また、実際に病人の脈をとってもおりましたので、それが従前の台詞になったのでございましょう。
「片桐宿の道庵先生は、来てくれても明日の昼頃にはなろうしのう・・・」
 旅人は、歳の頃なら五十半ばか。軽袗(カルサン)風の袴を穿き、結城紬の着物に、紋付き羽織は額裏が藍染木綿、手甲脚絆という服装(イデタチ)は、雪と土に汚れて身分のあるような無いような。だが、腰に手挟みましたる小刀は、道中差しなどと異なり武家のものに相違なく、厚朴(ホオ)の材質に金蒔絵の漆鞘、鍔は象嵌細工のかなりの拵えのものと見えます。提灯の灯に浮かんだ面貌は人品骨柄卑しからず、何やら道を極めた人物とも見受けられました。
 手には枯れたイカリ草をしっかと握りしめております。滑り落ちる時に夢中のうちに取りすがろうとしたものとも思われましたが、この大雪の中、幾許の支えになるものでもございません。
 松吉の後ろ姿が雪明かりの中に見えるうちに、宗寛翁は伊之助と六蔵の蓑を脱がせて二つ重ねの橇を作り、旅人の手に握り締めましたるイカリ草を指一本一本剥がすように開いて落としてから、自分の六尺の下帯を外して旅人を蓑虫のように巻き縛って、二人を急かせました。
 「旅のおかた、御免くだされや」
 これは、自分の下帯(つまり越中褌)で旅人の体を蓑に括り付けたのを詫びたものでしょう。それにしても雪の夜は寒くて、雪明かりとはいえ雪庇などが見にくく、難儀するものですが、雪にものを滑らせ運ぶのには、特に病人を静かに素早く運ぶのには、蓑はまことに恰好の橇となります。かくして、一行は松吉の付けた足跡を辿りつつ館を目指したのでございます。   「怪我に巧妙あり2」につづく

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