NET講談

怪我に巧妙あり

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 蘇命酒、完成す

 季節は初夏を迎えておりました。蝉しぐれも春蝉からつくつく法師に代わって参りまして、林白仙老が奇禍に遭いましてから半年以上経過、体調も元に戻り、口も不自由なく利けるようになっておりました。白仙老も<ご恩報じ>と意気込んで、薬草酒と蝮酒のコラボ・・・、あっ、以前も不用意に使用してしまいましたが、講釈師にあるまじき言葉を、またまた使用してしまいました!講談のことですので何卒ご容赦のほど。まあ、白仙老の貢献した処方蘇命湯と宗寛翁や地元が作った蝮酒を共同制作により合体させた「蘇命酒」の完成とでも申しましょうか、最終目的に向かって白仙老も実現に尽力しております。
 当然のことながら、蝮酒や薬草酒の白濁は松吉・お民夫婦の所業を奇貨として解決済みです。蝮の本体ははっきりと見えるようになりましたが、蝮酒としても合体薬酒としても問題ありません。問題は蝮酒の臭いであります。蝮の臭いはなまなかのものではございませんので、蝮酒と言うものはそうしたものだ、という覚悟で飲めばまだ我慢出来ましょうが、薬草酒に合体させるということになりますと、苦いわ臭いわで、とても飲用には耐えないのであります。灰を入れてみますと、臭いもかなり薄くなるようですが、それだけでは用を為しません。
  しかし、灰にも多少臭いを消す作用があるのが分かりましたことは大きな前進です。何か他のものを入れれば臭いが消えることもあるのだ、と。そこで、入手可能なあらゆるものが試されました。味噌、醤油から塩、木炭に至るまで試されました。何れも、多少は臭いが消えますが、他方、違う味と臭いが新たに付きます。帯に短し襷に長し、まだ灰が一番であります。
 ところで、松吉さんお民さん夫婦の喧嘩の根本的問題は解決したわけではありません。事件当時は衝撃のあまりの大きさにお民さんも口を慎んでいましたが、時が経つにつれ、また悋気がむくむくと頭をもたげてきました。宗寛翁も薬酒を作り上げるため御用繁多であるかして、お艶さんに話をしてくれたような様子も伺えません。お民さん、とうとう松吉さんを引っ張っていって、お艶さんに直談判することを決心をしました。
 「ちょいと、お艶さん!」
 「あーら、お民さん、相変わらずお美しいこと」
 強談判の様子はここでは割愛させて頂きますが、件のお艶さん、お民さんの談判が<闇夜の鴉>、つまり、何がなんだか分からない、という状況であったことが判明しました。寡婦のお艶さんとしては、いなせでいい男にはとりあえず粉をかけて見るというのが通常の行動で、他意は全くないのよ、ということでした。他意はないのに粉かけされまくっては堪らないので、お民さんの金切り声が何度か聞こえましたが、松吉さんとの不倫関係は全く無いことが分かりましたので、火元であったお艶さんがお詫びとして<猪鍋>を振舞うことでシャンシャンとなったのでございました。
 「このぼたん肉(筆者注:といったかどうかは分からない)も粉かけ男の一人から貰ったの?」と、お民さんさらっと嫌味を言う。
 「うん、そうなのよ。でも誰かは言わない」、お艶さん、さっとかわす。
 「それにしてもこのぼたん、全然臭くないのねえ」
 「そうでしょ!この間旅の人を三日ほど泊めてあげたの。その時<ぼたん鍋>をご馳走してあげたのよ。そしたら、これをかけたら肉の臭みが消えるよって、鍋の中にかけたの。本当に臭みがすっかり消えてしまったわ」
 「三日も?お艶さん、あんたが粉をかけるんじゃなく、かけられたわけね」
 「一緒になれたらいいなと思ったんだけど・・・」
 「ちょっとその粉を見せてよ」
 お民さん、突然閃いたことがありました。匂いを嗅いで見ると刺激臭の中にも、薬草共通の香りが鼻腔をくすぐるようです。もしかしたら蝮酒の消臭の効果があるかも・・・
 「何でも南蛮渡来のもので、たしか<モルカのクロブ>という薬草の粉だといっとったわね」
 松吉お民の夫婦は、粉を少しもらって急いで御館に帰り、御館様に事情を話しました。 思いあぐねていた宗寛翁、信用するしないに係らず、何じょうこれを放置して置くべきか。あまり期待もせずに、一年ものの蝮酒をふくべにとり、粉を振りかけ一晩様子を見ることとしたのでございます。
  翌朝・・・
  蝮酒の嫌な臭いは、すっかり消えておりました。
 後知恵をもってしますと、この粉は「丁子(ちょうじ)」の粉末ではなかったかと推察されます。丁子といえばジャガタラ国のモルッカ諸島(香辛料諸島)原産の熱帯性薬草で、肉の臭みをよく消します。肉料理中心のヨーロッパや中国では有名な香辛料で、ヴァスコ・ダ・ガマやコロンブスもこの丁子の容易な入手方法開拓が目的の一つであったと言われています。イギリスは特に熱心で、インドに丁子の植栽を進めその交易のため東インド会社を設立したくらいでございました。現在では<クローブ>といえば分かりやすいでしょう。しかし、この粉末が『本草綱目』の丁子であることは、林白仙老にも医家である道庵先生にも分かりませんでした。もともと日の本では、四足の動物は食さないことになっておりましたので、丁子の需要はほとんどなく、当時の人々の手に入ることは無かったのでしょう。
 とにかく、丁子であることは分かりませんでしたが、消臭効果を持つ薬草があることは分かりましたので、例の粉末に似た薬草探しが始まり、蝮入りの薬酒が完成しましたのは、旅老人林白仙を救ってから三年目、慶長七年(1602)秋のことでございました。

                                                   

  宗寛翁は、蘇命湯を基にした薬草酒と蝮酒とを合わせて出来上がりました薬酒に、「蘇命酒」と名付けました。宗寛翁が「この度、蘇命酒を作り上げられたのは、まさに『怪我の功名』によるものであった。先ず第一に林白仙殿が旅の途中で大怪我を負われ、お助けしたのが文字通りの功名に転じた。第二に松吉夫婦が喧嘩をして甕が灰を被り、報告が一日おくれて、一瞬怪我とも思われたが、結果は望外の巧妙となった。三つ目にお民が悋気でお艶のところに怒鳴り込み、一瞬血を見る怪我とも思われたが、一転して蝮酒の異臭を除去する薬草の存在が分かった。これを『怪我の功名』と言わずして何と言をうぞ」、と述懐したそうでありますが、<瓢箪から駒>とも申せましょう。
  林白仙老の方は、蘇命酒の完成を見ることなく、慶長五年の初春、かねて飛脚を立てていた国許より飛脚が届きまして、関が原に向け旅立って以来、杳として消息が分からなくなりました。奥州方面で同様の薬酒が出来たという話も聞こえて参りませんでした。
  宗寛翁は、林白仙老が去り、蘇命酒の一応の完成を見ましてからもさらに工夫を重ね、より効き目が良く、より飲みやすく、より作りやすいものにしてまいりましたが、慶長九年征夷大将軍徳川家康公に献上し、「天下御免蘇命酒」の称号を拝領致し、日本最古の商標であります[龍印]の使用を允許されました。
  中澤家ではその後も改良と研鑽を重ねて優れた薬酒と致しておりますが、それはまた、別の物語でございます。
 あっ、それからこの物語は講談として「講釈師、見てきたような嘘を言い」に適いまするよう虚実を入れ混ぜてお話致しておりますので、実話のように引用されませんよう、くれぐれも御願い奉りまする。       (完)

           *         *       *

                       蘇命酒創始とその頃の時代背景

天正10(1582)  豊臣秀吉検地を開始、人の動きが無くなる
天正18(1590)  豊臣秀吉小田原征伐、林白仙も参加
天正19(1591)  豊臣秀吉関白職を秀次に譲って太閤となる
文禄元年(1592)  朝鮮出兵、文禄の役
慶長3年(1598)  朝鮮出兵、慶長の役。豊臣秀吉没
慶長4年(1599)  林白仙伊那山中で行き倒れ、中澤宗寛に救われる
慶長5年(1600)  慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)
           天下分け目の関が原の戦い
慶長7年(1602)  中澤宗寛「蘇命酒」を創始する
慶長8年(1603)  徳川家康征夷大将軍、江戸幕府開府
慶長10(1605)  将軍徳川家康に蘇命酒を献上、「天下御免蘇命酒」として、龍印の            使用允許さる
慶長11(1607)  徳川家康駿府に隠居、大御所政治
慶長19(1614)  大阪冬の陣元和元年(1615)  大阪夏の陣、豊臣氏滅亡
元和2年(1616)   徳川家康没


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