海沼実 里の秋誕生秘話

(お断り:当余話を引用される場合、当余話は出来る限り事実検証をしてはおりますが、人物の心理描写やストーリーの穴埋めに、筆者の想像が入っている部分がありますので、その点お含みおきください。)
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童謡作家たち
 童謡の作詞家といえば、まず野口雨情、貫録で北原白秋、あとは名前をきけば“なるほど”の三木露風、相馬御風、清水かつら、曲名を聞いて驚く、「故郷」「紅葉」「春が来た」「朧月夜」「春の小川」の高野辰之、「うぐいす」「」「たなばたさま」などの林柳波でしょうか。それでは童謡作曲家といえば、まず名前が浮かぶのが弘田龍太郎、成田為三、本当は流行歌の方が多いけれど貫録で中山晋平、草川信、山田耕筰、名前をきけば“なるほど”の本居長世、歌曲の滝廉太郎、そして曲名を聞いてから“えっ、そんな人が作ったの?”と驚くのが、高野辰之とコンビを組んだ岡野貞一、「うれしいひな祭り」「船頭さん」「かもめの水兵さん」「仲良し小道」「りんごのひとりごと」の河村光陽、そして本題の「里の秋」「みかんの花咲く丘」「お猿のかごや」「あの子はたあれ」「からすの赤ちゃん」「やさしいおかあさま」「見てござる」「ちんから峠」「蛙の笛」の海沼実。
海沼実上京
 よほど童謡に詳しい人でないとその名前を知らない海沼実は、
1909年(明治42年)に信州の松代で生まれ、1971年(昭和46年)に没した、最も優れた童謡作曲家で、児童合唱団<音羽ゆりかご会>の創設者である。実家は古くからの菓子製造販売舗で、長男の彼は、当り前のように家業を継ぐことに定められていた。しかし、小さい頃から音楽が好きでたまらず、長じては同郷の草川信の活躍を耳にするにつけ、音楽への思いもだしがたく、叔父のつてを頼って、25歳の頃家出同然の状態で上京する。菓子舗の商売は両親と妻子に残してきたが、まさか仕送りを頼むわけにもいかず、ぽっと出の音楽家にとって東京は厳しく、仕事は見つからず、生活は困窮を極めた。それでも後の大作曲家を仏が救い賜うたものか、偶然、護国寺で子供の歌唱指導をできるものを探しており、お布施のようなわずかな謝礼ではあったが、その職により露命を繋ぐこととなった。海沼実は小さいころから草川信に憧れてヴァイオリンを自己流で続けており、演奏家になろうと上京し、苦しい中で東京音楽学校(現東京音楽大学)に入学し本格的にヴァイオリンを始めたが、何しろ自己流の癖がついてそれなりに完成したものは、スポーツでもなんでもそれを打ち破って一流の域に達するのは至難を極めるものである。海沼実もヴァイオリン奏者としては壁を感じ挫折感を味わい、草川信のように童謡の作曲家として生きていく決心をする。子供会の歌唱指導をしていこうと思ったのは、丁度そのようなときだったのである。子供の歌唱指導といえば、現在のピアノ・ヴァイオリン、スポーツなどの手習いと同じようなものだったのだろうが、当時(昭和初期)の童謡は大変なもので、大正中期から昭和8年ころまで、<赤い鳥><金の船>などの童謡童話雑誌の<童謡童話運動>が全盛を極め、何千曲も発表された。レコード全盛の時代でもあった。童謡作家金子みすゞもこの時代の人である。しかし、昭和8年を境に戦機の高まりとともに童謡ブームは急速に衰えた。児童雑誌は次々に廃刊され、童謡詩人たちもみな筆を置き、ある人たちは軍歌の方に転身していった。海沼実が童謡の世界に乗り出そうとしたのは、あたかもそういう童謡冬の時代だったのである。
 しかし、仏の最大の救いは、彼が護国寺で子供の歌唱指導に手を染めたことにあった。これが発展して後の<音羽ゆりかご会>となり、川田正子・孝子・美智子の川田三姉妹を始め童謡歌手を輩出し、戦中戦後の童謡氷河期を支えていくのである。<音羽ゆりかご会>は戦中戦後の一時期、東京放送児童合唱団、コロムビアゆりかご会などに名称を変えたこともあったが、現在も<音羽ゆりかご会>として存続する日本屈指の合唱団(大人の合唱団も含め)である。ゆりかご会という名称は、故郷の先達である草川信の名曲「ゆりかごの唄」に対する思い入れが感じられる。こうして海沼実の作曲家人生は、自身が創設した、<音羽ゆりかご会>とともに彩られることとなるが、海沼の名前があまり人口に膾炙していないのは川田三姉妹や<音羽ゆりかご会>があまりにも有名だったため、座付作者のような扱いを受けていたためかもしれない。
童謡作詞家の発掘
 海沼実は<音羽ゆりかご会>のために多くのオリジナル曲を作曲したが、またそのため多くの童謡詩人を発掘した。まず最初は同郷の童謡詩人山上武夫【1917年(大正6年)〜1987年(昭和62年)】である。山上は、海沼実が草川信に憧れたように、故郷の先達を頼って信州から上京してきた。そのころ海沼はすでに童謡を試作作曲しており<音羽ゆりかご会>に供給していたものの、詩を提供してくれる高名作詞家もなく、詞も曲も自分で作って色々と試作していて、あまり見るべきものは無かった。しかしその中で後に「からすの赤ちゃん」としてヒットした歌が生まれる。この作品を見ると、作曲は言うまでもなく、作詞に対する感性、いや童謡に対する感性が並々ならぬものであることが伺われる。
昭和
13年の真夏、山上は暑さに辟易しながら新しい童謡制作に呻吟していた。海沼から二人で童謡を作ろうともちかけられていたのだ。詩は山上が作るので、海沼はアドバイスしながらも、待っているより仕方がない。二人で作るのはなかなか大変だ。詩と曲を息をあわせて作らないとうまくいかない。まるで駕籠屋みたいだ。海沼との話し合いにあれこれ想いに耽っていた山上は、嫁ぎ先の姉の家の裏庭を出て故郷の方の空を見ながら、あの山の猿は今頃どうしているかな、と考えていた。途端、「そうだ!お猿が駕籠を担ぐようにしてみよう!」書き上げたのをすぐに海沼に渡し、海沼が曲を付けて出来上がったのが「お猿のかごや」。これは日中戦争の始った年であったが、全国的にヒットした。海沼実としても童謡作家としてやっていける自信を感じた最初の一作だった。その後も山上武夫とのコンビで多数の童謡を作ったが、ヒットは昭和20年の「見てござる」まで待たねばならなかった。
次に発掘したのが滋賀県日野町出身の細川雄太郎【
1914年(大正3年)〜1999年(平成11年)】である。細川が「泣く子はだあれ」「ちんから峠」を作詞して童謡雑誌『童謡と唱歌』に発表したのが昭和14年。「お猿のかごや」から一年たって、海沼は、曲をつけられる童謡作家の詩を探していた。そこで見つけたのが細川の、<泣く子はだあれ>という詩だった。時節柄ということもあるし、曲も明るいものの方が良いだろうというディレクターの提言や、海沼の、<だあれ>は音が汚いし、音楽に乗りにくい部分を修正したほうがいいとしたアドバイスでできたのが「あの子はたあれ」という歌だった。同年、「ちんから峠」とともにヒットし世に歌い継がれる童謡となっている。
斎藤信夫と<星月夜>
 昭和16年12月、一人の青年から、自身が作詩した数編の童謡が海沼のもとに郵送されてきた。
(注:1)青年の名は斉藤信夫【1911年(明治44年)〜1987年(昭和62年)】、郵送された曲は青年が戦意高揚の意気に燃えて書かれた『星月夜』。この『星月夜』は海沼の好みではなかった。一番、二番は良いが他は童謡にはそぐわないと思ったので、返事をすることはなかった。尤も、後日海沼と山上武夫は「欲しがりません 勝つまでは」という当局御用達のような大政翼賛歌をつくってはいたけれど・・・
『星月夜』歌詞は、
  ♪(一)省略  (二)省略  (三)きれいなきれいな椰子の島、しっかり護って下さいと、ああ父さんのご武運を、今夜も一人で祈ります (四)大きく大きくなったなら、兵隊さんだようれしいな、ねえ母さんよ僕だって、必ずお国を護ります♪
というものであった。その時は無視したが、斉藤とは交流が続き、『星月夜』の代わりと言う訳ではないだろうが、海沼は同昭和16年斉藤の「ばあやたずねて」に曲を付けている。これが海沼實作曲よる斎藤の最初に世に出た作詩曲である。斉藤信夫は千葉県山武郡成東町五木田(現山武市五木田)の出身でパリパリの軍国教師、つまり当時ではごく普通の尋常小学校の教師であったので、自分の内なる燃ゆる思いから出た詩を海沼が無視するのが、その時は理解できなかった。しかし、その斉藤も終戦を機に、自分が子供にしてきた皇国教育の非を悟り、反省の意を込めて、学校を止めてしまう気骨をも持っていたのである。
 昭和1612月、日米は太平洋戦争に突入した。斎藤は意気軒昂として戦意高揚の歌を作ったが、国家総動員体制が敷かれ、童謡の発売どころではなくなって来た。海沼実も前述の「欲しがりません勝つまでは」などのほか目立った仕事をするでもなく終戦を迎えた。国は戦争で疲弊しきっていて、童謡、流行歌も含め、もはや音楽などという贅沢は許されず、かつての時代はもう戻って来ないのではないかとすら思われた。しかしもう一方で、国民の音楽に対する渇望はいや増していたのである。戦争が終わって4か月も過ぎ、戦地からはゾクゾクと復員兵が戻ってくる。唯一の国営放送NHKも、復員兵たちに故郷の香りを音楽に乗せて伝え、ああ、日本に家族の元に辿り着いたのだという実感を贈り、歓迎の意を示そうと番組を計画した。ところが、周りにある歌はGHQに許可されない軍歌ばかり。新しい民主主義の洗礼を受けた歌などはまだ作られていない。さりとて、いくら懐かしい歌でも<船頭小唄>や<東京行進曲>と言うわけにもいかない。そこで戦争突入以前に童謡と子供の合唱を通じて国民の心を癒していた海沼実に白羽の矢が立ったのである。
<外地引揚同胞激励の午後>の歌
 NHK(旧JOAK)から趣旨を聞かされた海沼も茫然としてしまった。故郷の香りだ、帰国の実感だ、歓迎の気持ちだ、といっても、国土や人心は荒廃し、明日の方向すら定まらない時期にどんな歌を子供に歌わせたらよいのだろう。自分の今まで作曲してきた歌は対象が幼児専門で、<エーッサホイサッサ><ちんからホイ><なんなんなつめ>だ。大人の、まして復員兵相手などは・・・さて、どうしたものか、と苦吟しあれこれ考えているうち、あのパリパリの軍国教師斉藤信夫が最初に海沼のもとに送るってきて無視した『星月夜』が思い浮かんだ。確かあれの一番二番は、田舎の風景だったが、自分も故郷の信州松代のことだと思った詩だった。慌てて郵便を繰って見ると、
  ♪ (一)しずかなしずかな里の秋、お背戸に木の実の落ちる夜は、ああ母さんとただ二人、栗の実煮てます囲炉裏ばた (二)あかるいあかるい星の、鳴き鳴き夜鴨の渡る夜は、ああ父さんのあの笑顔、栗の実食べては思い出す ()上記参照 ()上記参照 ♪
 <これだ!>。海沼は思った。一番は、これこそすべての日本人が想い描く日本の故郷の原風景だ。二番は、終戦でまだ現地に留まっているお父さんの安否を家族が気遣っているとも取れる。それに対象が大人でも全くおかしくない。子供が大人に呼び掛けている。これに静かなメロディーを付ければ、<復員兵たちに故郷の香りを音楽に乗せて伝え、ああ、日本に、家族の元に辿り着いたのだという実感を贈る>ことができる。ただ、問題は『星月夜』の三番、四番をどうするか、だ。復員兵歓迎の歌にそぐわないし、第一、占領軍参謀本部(GHQ)がウンと言う訳がない。二番までで終わりとするか、三・四番を書き換えるしかない。著作者斉藤信夫の意向はどうなのだろうか?
 『スグオイデコフ カイヌマ』突然の電報を受け取った斉藤信夫は、何だろうと訝った。普通なら童謡のことに決まっているが、この騒然としたご時世、人々が生きるために懸命だった時に、新しい童謡があろうはずがない。しかも、スグオイデコフ、などという緊急の要請が童謡がらみであるはずはない、と思ったのである。さりとて、二歳年上の海沼と自分の間に童謡以外に何があり得るのか?自分が教師を辞める覚悟でいることを海沼が知ったからだろうか?
 
取りあえず駆け付けた斉藤信夫は、海沼実の説明を聞いて、スグオイデコフ、の理由は氷解したのを感じた。そうはいっても、納得は出来なかった。4年前に自分が作詩した『星月夜』の三番、四番を<今週中に>
(注:2)復員兵に適うように改作しろ、というのである。自分だって皇国史観教育を反省して学校を止めるつもりでいるくらいだから、三・四番が今のご時勢にそぐわないことは重々承知しているし、改作には大賛成である。しかしながら、一・二番はそのままで三・四番のみを直せというのは乱暴に過ぎないか。一・二番であろうと三・四番であろうと、いずれも自分が八紘一宇に感じ入り戦意高揚を基本として作詩されているから、一・二番であっても言の葉の隅々までそれが浸み込んでいる訳で、そのまま使用するのは無謀というものだ。現に、一番の<木の実の落ちる><ただ二人>、二番の<鳴き鳴き夜鴨の渡る><父さんのあの笑顔><思い出す>などは良い意味ばかりでなく、<父さんの安否>に対する不吉、不安な心情も入っているのである。それを<今週中に>なんて・・・とても無理だ。
「里の秋」の誕生(注:3)
 海沼は、実は一・二番から曲想はすでに得ていて、大体出来上がっている、と告げると、当時同居していた11歳の川田正子を呼んで、自分はヴァイオリンで伴奏を始めた。
  ♯♭ し〜ずか〜な〜 し〜ずかな〜〜 さ〜との〜あ〜き〜
 透明で澄んだ川田正子の声に乗って流れる歌の歌詞を聞いて、斉藤信夫は、自分が愛国の心に燃えて作ったあの『星月夜』はどこにいってしまったのだろう、と思った。言葉は一言も変わっていないのに、静かな胸を締め付けるような望郷のメロディーにより、全く別のイメージに変貌しているではないか。これなら確かに、海沼のいう<復員兵たちに故郷の香りを音楽に乗せて伝え、ああ、日本に、家族の元に辿り着いたのだという実感>を感じさせることができる。自分は三番で<復員兵を歓迎する心>を表現すれば良いのだ。そう悟って期日までに三番以降を改作することに同意したのであった。 
 しかし、改作は難航を極めた。何にもでてこないのだ。まず、<一番、しずかな、しずかな、二番、あかるい あかるい、三番、きれいな きれいな>の各冒頭部分が出てこない。<きれいな きれいな>にこだわると後が真白になってしまうし、さりとて、別の形容詞の繰り返しで適当な言葉も出てこない。二番の<星の夜><夜鴨><渡る夜>おまけに題名が<星月夜>では、夜、夜、夜、で不味いかな、などということばかり浮かんでは消える。時間はただ無為に過ぎて行き、期限は刻一刻と迫ってくる。自分はすでに教師を辞職することで皇国史観には訣別したが、今また、戦時中の我が熱病の為したことにさいなまれる。あ〜あ、『星月夜』とももう訣別したいなあ。さよなら三・四番、さよなら戦争だ。放送の前日、斉藤が溜め息をつきながらふとテーブルの上の『星月夜』の元歌を書き取った紙を見ると、丁度三番の歌詞の冒頭に<さよなら>と書きなぐってある。それが<さよなら椰子の島>と読める。あっ!斉藤は思った。<椰子の島>は、自分も南方の戦地を代表するイメージで書いた。また、<さよなら>は戦争に関わる一切の事に訣別する言葉ともいえる。<さよなら椰子の島>は、自分にとっても『星月夜』とは180度違う訣別の証しであると同時に、新しい時代への希望ともなり得る。復員兵にも相応しい。これが決まれば後は一気呵成だった。極論すればあとはどうでもいいのである。
  ♪(三)さよならさよなら椰子の島、お船に揺られて帰られる、ああ父さんよご無事でと、今夜も母さんと祈ります ♪
 詩の出来上がったのは夜であった。海沼の方は二番までで十分と思っているだろうから、そんなに心配しないだろうが、電報だけ打っておいて、当日直接愛宕山のNHKに駆けつけることとした。
 私たちがこの詩をよく読み返してみると、確かに元歌『星月夜』の三番と比べスムーズな繋がりがない。唐突にすら感じられる。しかし、全体から見ると、故郷の息吹・家族の思い・歓迎の意、が明確に表れているし、何よりも815日を境に時代が180度変わったことを、この歌が表象しているように思われるのである。 
感動の放送
 翌日NHKに駆けつけた斉藤信夫を海沼実と川田正子が玄関で待ち受けていた。海沼は斉藤の労をねぎらい、なお二つの提案をした。ひとつは、歌の題名を一番から取って「里の秋」とすること、もうひとつは、二番の<星の夜>を<星の空>と変えることであった。この二つに斉藤の異論はないので、それで放送されることとなった。
 昭和201214日午後145分、この歌はNHKの<外地引揚同胞激励の午後>という番組で放送された。
 川田正子の澄んだ唄声が皆の心に染みいるように流れた。歌い終わると辺りは時間が止まったように静まり返った。しわぶきひとつしない。やがて感動の呻きが遠雷のように盛り上がってきて、スタジオ内は拍手の嵐に包まれた。番組がまだ終わらないうちにNHKのありとあらゆる電話が鳴り出し、パニック状態となった。<何と言う歌か?><感動した!><もう一遍聞かせて!>。電話などあまり無い時代の話である。NHKでも開局以来の出来事であったという。翌日からは郵便と称賛の嵐。<東京都 NHK様>という手紙も沢山あったに相違ない。川田正子は、同番組で「里の秋」を二回歌った記憶があるそうだ。
 斎藤信夫はその後故郷の千葉県で中学校の教職に復帰し、海沼とは「蛙の笛」「夢のお馬車」「お花のホテル」など数多くの童謡を残している。
「みかんの花咲く丘」
 
海沼実には翌昭和21年に全く同じようなことが起った。今度の作詞家は加藤省吾【1914年(大正3年)〜2000年(平成12年)】だった。これまたNHKの「空の劇場」という伊東からの放送番組で当日になっても川田正子の歌う歌がなく、海沼実から伊東生まれの加藤省吾が呼ばれ、伊東の歌を作らせて間に合わせようとしたのだった。加藤省吾は海沼が発掘してきた新人の童謡作詞家と違い、既に山口保治の作曲で「可愛い魚屋さん」のヒットを飛ばしており、作詞家としても一本立ちし、童謡同人誌『童謡と唱歌』を主宰したりしていたが、戦中戦後にあまり童謡の仕事はなく、無聊をかこっていたし、前年の「里の秋」の大成功のこともあり、喜んで駆けつけた。しかし当日放送用の歌詞を2〜3時間のうちに作れというのだから、大変だ。加藤は海沼の目の前で苦吟して、とにかく少年の頃みかんの花が咲いていた故郷の丘を思い出し、一気に書き上げた。海沼はその詩を引っ掴むとGHQヘとび、列車に飛び乗った。伊東に着くまでに作曲しようというのである。小田原を過ぎてもまだ書けない。(注:4)しかし、小田原−熱海の間で窓外の風景を見ているうちにふっと最初のメロディーが浮かんだのだ。後は一気呵成。伊東に着くまでに書き上げたのだった。かくて、伊東から川田正子の声に乗って、全国に「みかんの花咲く丘」が流れた。その直後、NHKでは「里の秋」の時と全く同じことが起った。電話など余りない時代に電話が殺到。それから津々浦々全国的な大ヒットとなって行ったのである。用意周到にヒットを画策したものより、高いテンションを短期間に集中したものが瓢箪から駒のように一挙に成功することは良くあることなのであろう
 海沼実は終戦前後の童謡・流行歌不毛の時期に、日本人に癒しと希望の歌を送った作曲家であった。

                           (了)

(注:1)斎藤信夫は『星月夜』を郵便で送った、という記述と、投稿雑誌を持参して海沼を訪れたという記述がありますが、後年海沼は斎藤のために「ばあやたずねて」を作曲しているのですから、どこかで面識があったと思わざるを得ません。
(注:2)海沼が斎藤を放送当日呼んだような記述もありますが、時間関係からしてあわないようです。
(注:3)以下の斎藤の心理描写などは資料も見つからず、事実の前後関係から筆者の想像した部分が入っていますので、フィクションとしてお読みください。資料として引用したりしないでください。
(注:4)『国府津』辺りで思いついたという記述もあります。
「里の秋」 童謡・唱歌・懐メロ八洲秀章&抒情歌昭和戦後の歌謡曲・演歌 「みかんの花咲く丘」