北原白秋伝「城ヶ島の雨」

北原白秋伝「城ヶ島の雨」
桐の花事件 
 【春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕】(1913年、大正2年歌集『桐の花』収載)、これは中学校の教科書にも載った北原白秋の最も有名な歌であり、牧水の<幾山川超えさり行かば・・・>や啄木の<東海の小島の磯の白砂に・・・>などと並び称されるものであろう。この歌を詠んだのが1907(明治41)というから白秋22歳、早稲田在学中の最も気鋭の時である。不倫相手の隣家の女性とも出会う前のことだが、すでに多感な詩人であったことが窺われる。歌の意味は<うぐいすよ、もう戸外の新緑に真っ赤な日も沈もうという時刻なのに、そんなに楽しげに鳴いてくれるな。かえって侘しさが増すではないか>というほどの意味であろうが、<な鳴きそ鳴きそ>の部分が現代では難しい。<な〜〜〜そ>は<な>の部分の動詞を<そ>により否定する形態で、菅原道真の<東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ
(注*1)>と同様の用法である。白秋は象徴詩にも<春の鳥>と題して【鳴きそな鳴きそ春の鳥昇菊の紺と銀との肩ぎぬに・・・】(詩集『東京景物詩及其他』収載)などがあり、竹久夢二にも<鳴きそな鳴きそ春の鳥・・・>という詩がある。ただ有名と言っても【ゆく水に赤き日のさし水ぐるま春の川瀬にやまずめぐるも】(『桐の花』)とどちらが素晴らしいかは曰く言い難いが。
 『桐の花』は白秋畢生の歌集で、現代でも最高の評価に値するものだが、発刊当時、文壇はいざ知らず、一般には全く評価されなかった。それまでに白秋は、早稲田大学英文科予備校入学後直ぐに文壇に頭角を現し、多方面に才能を認められ、1909(明治42)発刊の処女詩集『邪宗門』、1911(明治44)の『思い出』などにより文壇に不動の地位を確立し、すでに時代の寵児となっていたのである。それが、畢生の作ともなるべき歌集が何故?それには、ちょっと前述したスキャンダルが原因となっている。『思い出』が大変な評価を得て絶頂にあったその翌年の1910(明治45年、大正元年)、隣家の人妻であった女性と関係を持ってしまい、その夫に告訴され、女性ともども監獄に入れられるという事件がおきたのである。当時は姦通罪があったのだ。(韓国には現在もまだある。)白秋の身柄は弟鉄雄氏の奔走により2週間で放免されたが、名声は地に堕ちてしまった。実態は、夫はその前に妻に離婚宣言をしており、別居夫婦であったが、白秋の名声を利用して金をせしめようとした、ということらしい。しかし、名声ゆえに新聞は連日大々的に取り上げ、白秋を糾弾した。文壇や世間からは白い目で見られ、友人は離れて行く。青年白秋は悔悟と自責の念に駆られ、何度も自殺を考えたと云う。筆者が思うに、他の自殺した作家同様、白秋もうつ病かパニック症候群に罹っていたものと推察する。色々な事情が渦巻くなかで、白秋はくだんの女性と結婚(多分罪滅ぼし結婚)し、一時三崎の城ケ島に移り住む。その時の体験が「城ケ島の雨」に結実するのだが、同歌は船唄という名でありながら、♪利休鼠の雨・・・それとも私の忍び泣き?♪となる。この事件は後に<桐の花事件>と呼ばれるようになる。それは、白秋が歌集『桐の花』の巻末に、同事件の謝罪をしていることによる。【鳴きほれて逃ぐるすべさえ知らぬ鳥その鳥のごと捕らへられにけり。(と事件から投獄されるまでの経緯を示したのち)、わが世は凡て汚されたり、わが夢は凡て滅びむとす。わがわかき日も哀楽も遂には皐月の薄紫の桐の花の如くにや消えはつべき。わがかなしみを知る人にわれただ温情のかぎりを投げかけむかな。囚人は既に傷つきたる心の旅びとなり。この集世に出づる日ありとも何にかせむ。慰めがたき巡礼のそのゆく道のはるけきよ】と心情を切切と述べているからである。

利休鼠の雨! 利休鼠の色
 【城ヶ島の雨】
 雨は降る降る城ヶ島の磯に 利休鼠の雨が降る
 雨は真珠か夜明の霧か それとも私の忍び泣き
 舟は行く行く通り矢のはなを 濡れて帆あげた主の舟
 ええ 舟は櫓でやる櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気
 雨は降る降るひは薄曇る 舟は行く行く帆がかすむ

 「城ケ島の雨」はこの<桐の花事件>の傷がまだ癒えぬうち、1913(大正2)1028日に作られた。同年1030日、島村抱月が主宰する芸術座が日本の歌曲の質を高めようと、第―回音楽会を数寄屋橋の有楽座で開催する計画を立て、作詞を北原白秋に依頼し、作曲を音楽学校出で当時市立一中(現日比谷高校)の教師であった梁田貞に依頼することとしたのである。白秋は事件や実家の破産の影響で極貧生活を強いられており、自ら魚の仲買人をやっていたくらいだから、渡りに舟の依頼であった。(筆者推察:白秋を励まし続けた志賀直哉などの斡旋もあったかも知れない)。しかし、貧乏はともかく、精神状態が前述のようでは詩作など覚束ない。一日一日と日は足早に経過していくが、一向に想が纏まらない。ある日思いあぐねた白秋が自宅のある見桃寺から向ヶ崎に出て対岸の城ケ島の遊ヶ島の辺りをそこはかとなく見ていると、木々の燻んだ緑に晩秋の雨が煙って、絶妙な色合いにみえる。まさにワビ、サビの極致とも見えた。<利休鼠みたいな色だなあ>その途端、<そうだ!いろいろ考えても仕方がない。利休鼠だ!今、一番身近な城ケ島を歌にすればいいのだ!>かくして三崎の船唄「城ケ島の雨」は出来上がり、27日の夜、東京から催促に見桃寺を訪れた岩崎雅道に渡された。音楽会開催まであと二日しかない。この辺のところは白秋自身が【「城ヶ島の雨」は大正二年恰度私が相州三崎の城ヶ島の前に住んでゐた頃、芸術座音楽会のために舟唄として作ったものである。この舟唄は梁田貞氏の作曲で、その会で唄はれた。近頃聞けばかの地では今は船頭たちまで唄ってゐるさうである。さうなってくれるとうれしい。(大正8年白秋小唄集覚え書より)】
 岩崎氏から詩を渡された梁田貞も弱り果てた。いつ来るかいつ来るかと思っていたら、なんと2日前となってしまった。高邁な理想を掲げて音楽会を開く、その主たる曲を2日間、いやピアノのアレンジや練習を考えるととても2日間なんてない時間で仕上げなければならないのだ。しかし、真の芸術家は逆境をも自作の糧としてしまう。白秋もそうだが、同じようなことは「里の秋」や「みかんの花咲く丘」でも起こった。(海沼実の「里の秋」ができるまで』参照)。いずれも切羽詰ったギリギリの状態で能力を発揮し、間に合わせるどころか後世に残る名曲を作っている。「どんぐりころころ」や「とんび」の梁田貞も、後に二、三の「城ケ島の雨」が競作される中で、<白秋の城ケ島の雨と言えば梁田貞>と言われるほどの名曲を1日かそこらで作り上げたのであった。これが、どうして可能であったのか、才能の成せる業だったのかは、資料が見つからないので推察の域を出ないが、歌詞とメロディーを見ていると、自ずと浮き上がってくることがあるように思う。梁田貞も当然のことながら、白秋の桐の花事件を知っていたし、同年輩の者として白秋の作詩当時の心情も理解しようとしていた。詩の背景にある詩人の心情が読み取れなければ作曲などできないからだ。

「城ヶ島の雨」完成
 梁田貞は、「城ケ島の雨」という船唄の名を借りて、当時の北原白秋の心情を曲に載せたのだと思う。♪雨は降る降る城ケ島の磯に 利休鼠の雨が降る 雨は真珠か夜明けの霧か それとも私の忍び泣き♪、の部分は正に自責と悔恨に苛まれた白秋の陰鬱な心情を表わしている。♪それとも私の忍び泣き♪の詞がなくてもそうである。しかし、哀調のメロディーの中に明るい透明さもあって、<救済>がほの見える。次に♪舟は行く行く通り矢の端を 濡れて帆揚げた主の船♪、部分は転調していて、事件に濡れて、心の旅人となって巡礼の船出をする白秋の姿を表わすもの。♪ええ 舟は櫓でやる櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気♪、の力強いメロディーは、心の船旅にある白秋の心情の舵取りを鼓舞し、応援し、勇気を与えるものの様に聞こえる。♪雨は降る降るひは薄曇る 舟は行く行く帆がかすむ♪、の部分は、前途になお困難が予想される旅人北原白秋の安否をきずかって見送る、梁田貞自身のメロディーである。このような形で、白秋の心情の変遷と行く末に焦点を当て、この名曲を1日で作り上げたとすると、梁田貞は矢張り天才であった。「城ケ島の雨」はかく出来上がり、大正21030日数寄屋橋の有楽座で、梁田貞自身のテノールにより披露された。
 その後、白秋は2度の離婚を経験し、転々と居を移したり家族の破産にあったりして、貧困状態は小田原に<木菟(みみずく)の宿>を構える大正7年ころまで続いた。ここで白秋を救ったものは、鈴木三重吉の提唱した<赤い鳥運動>である。三重吉は唱歌を低級とし、真に子供の為になる、子供の感性に応える童謡を提唱した。そして三重吉の創刊した<赤い鳥>の中心人物は北原白秋となって、白秋の新たなる出発となった。白秋は歌人、詩人から童謡作家の方に錘がブレたが、このブレは、白秋の過去の忌まわしい重荷を軽くし、名声も取り返し、経済的にも安定させる糧となったのである。
 
(注*1) この<春な忘れそ>は後の改作であり、元歌は<春を忘るな>であるという説が有力。

【当倶楽部の北原白秋作品】

赤い鳥小鳥」成田為三、「」弘田龍太郎、「」成田為三、「あめふり」中山晋平、「あわて床屋」山田耕筰、「かやの木山」山田耕筰、「雉ぐるま」弘田龍太郎、「この道」弘田龍太郎、「スカンポの咲くころ」山田耕筰、「砂山」中山晋平、「砂山」山田耕筰、「ちんちん千鳥」近衛秀麿、「ちんちん千鳥」成田為三、「とんからこ」弘田龍太郎、「なつめ」弘田龍太郎、「ペチカ」山田耕筰、「待ちぼうけ」山田耕筰、「山のあなたを」成田為三、「ゆりかごの唄」草川信、「りすりす小栗鼠」成田為三、「りすりす小りす」弘田龍太郎、「城ケ島の雨」梁田貞、


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